江戸後期の折衷派の儒学者、名は翼、のち長興(興一字の表記が多い)、鵬斎と号した。一七五二(宝暦二)年九月一五日、日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭万右衛門の子として生まれた。六歳にして飯塚肥山に素読を習い、三井親和に書を学んだ。長じて井上金峨について儒学を学んだ。金峨は神田佐久間町の医学塾蹟寿館の総理として儒学を講義し、荻生徂徠の古学と宋学に独自の見解を以ち折衷派といわれる学派をすすめた。こうした中で独立した鵬斎は、一七七九(安永八)年『論語撮解』を著して、幕府の重鎮だった徂徠を攻撃し、一七八一年には国政に対する建白書『富国雑議』を発表したが容認されず、やがて寛政の改革で幕府から異学者とみられて阻害された。このため駿河台に開ていた家塾楽群堂を閉じ、根岸・下谷界隈に居を構え在野の学者として、文人墨客と酒を酌み交わしながら気楽な日々を送り、また関西や利根川流域、北関東、越後、佐渡などを旅行して各地の文人と交流した。そして、楷書、草書の書跡の作品、さらに文人墨客の交流の中で下町、近郊に多くの漢詩碑文の金石文を残している。
千住の寺子屋群雀堂正木氏とは親交があり、頼まれて、亀戸天神境内に、寺子屋生徒の廃筆供養の筆塚として格調高い「毛潁(もうえい)を祭るの文」という石碑を建てており、また千住四丁目氷川神社祭礼大幟に
氷川神鑒普田疇(氷川神鑒(しんかん)、田疇(でんちゅう)に普(あまね)く)
仙寿霊宮護閭閻(仙寿霊宮、閭閻(きょえん)を護る)
という文を大書し、「鵬斎亀田長興盥沐拝書」としている。この幟は一八一七(文化一四)年九月一五日の制作である。
また、六月三丁目八幡神社境内には「応神祠之碑」が鵬斎とその子綾頼の撰文で建てられている。
一八二六(文政九)年三月九日、享年七五歳で没している。墓は台東区今戸二丁目五称福寺の墓地にある。