「高陽闘飲図巻」の跋文を寄せた江戸後期の漢詩人。はじめ、館林秋元家代々の江戸詰藩士だったが、脱藩して江戸昌平坂学問所の林家に入門、湯島聖堂の啓事役となり、のち江湖詩社を結んで活動する。寛政の改革で異学の禁によって月俸半減の処分を受けて辞し、富山藩の儒者となり藩校広徳館へ隔年に赴任した。一八一一(文化八)年富山藩を致仕、長崎で清人と交遊して漢詩の神髄を学び、江戸の詩風改革派の中心になった。晩年は江戸文人の元老と尊敬された。日本歴代詩集成『日本詩紀』五三巻、『全唐詩逸』などの編著、著作が多く、今日『寛斎先生遺稿』が読まれている。