我が国で経済史学を樹立した内田銀蔵は、一八七二(明治五)年正月二五日、川魚問屋鮒与、第十一代内田与兵衛の長男として生まれた。内田美和さんの話しによると、銀蔵は長男だから、当然十二代目を継がなければならないが、千寿尋常小学校を卒業すると本郷の錦修中学校に進み、さらに上級学校へと学問の道に進みたいと強く親に申し出た。学校の成績も抜群であり、通りを隔てて店の前に建てられた勉強部屋からは一歩も出ずして読書し、人並み外れて勉強しているので、親も地方裁判所に願い出て、弟の善蔵に家督を相続させる手続きをしたとのことである。
鮒与は千住仲町で現在も鰻専門の問屋だが、一八五七(安政四)年の河魚問屋仲間議定書に出てくる掃部宿の川魚問屋六軒、川魚仲買二四軒の中で仲買の筆頭にあげられている店である。歴史が古く、はっきりとは確認できないが、創業は元禄とも享保とも伝えられる。
弟に店を任せた銀蔵は学問の道に進み、一八八九(明治二二)年、早稲田大学の前身である東京専門学校を卒業し、東京帝国大学文科大学に入学、国史科に学んだ。一八九六(明治二九)年七月、卒業と同時に大学院に進み、日本経済史を確立すべく、『史学雑誌』に論文を発表して学界に注目され、母校帝大の国史料・史学科でわが国初の日本経済史を講義した。そして、東京専門学校政治経済科講義録「経済史」を執筆、中世の田地収授法等の研究、中世以降の外国金銀の輸入の研究で、一九〇二(明治三五)年一〇月、文学博士の学位を授与された。
翌年二月、文部省の外国留学生としてヨーロッパに出発し、イギリス・フランス・ドイツの各地を巡り三年間留学した。この留学でドイツ歴史学派の影響を一番受けた。そして在欧のまま広島高等師範学校の教授に任命され、一九〇六(明治三九)年六月に帰国してその任に就いたが、京都帝国大学に文科大学が増設されることになり、八月には同大学の教授をも兼任、文科大学史学科開設企画にも参加した。
京都大学初の史学教授に就いた銀蔵は、広く若い世代の学生に自由な研究の領域を広めようと、日本で始めて学生用の国史研究室を設けたことで知られる。さらに史学科に地理学の講座を併設し、史学と地理の共通学習を開始するなど今日の分析手法の確立の端緒となった。
一九〇七(明治四〇)年五月、三六歳の時、京都帝国大学の専任教授となり、国史講座を担当して史学研究法と国史概論を講義した。また一九一二(明治四五)年には、経済史のバイブル的存在となった『経済史総論』を刊行するなど、その執筆活動もまた旺盛だった。
第一次世界大戦後、一九一八(大正七)年四月、再びヨーロッパ各国に出張して翌年三月に帰国したが、間もなく発病し、七月二〇日、多くの人に借しまれつつ四七歳で他界した。戒名は「文教院智顕日明居士」、いかにも博士の人柄を偲ぶにふさわしい法名である。博士の墓は日ノ出町四二番一号日蓮宗の清亮寺にあり、「文学博士内田銀蔵之墓」と銘記した墓石が建っている。
著書として『内田銀蔵遺稿全集』全五巻、「日本経済史の研究」二巻が刊行されている。(安藤義雄「内田銀蔵の墓」『足立史談』第二七六号)