もう一つは林太郎の文筆活動の開始期が千住時代であった。その文壇デビューは、一八八一(明治一四)年の『読売新聞』九月十七日号に掲載された「河津金線君に質す」で、署名も「千住森林太郎」としてであった。林太郎のこうした活動を研究した木村繁さんは、林太郎の主な執筆・著書を調査し(前頁一覧)、彼の活動を評して「千住時代は修学と医学、文芸始動の時であった」と述べている(木村繁「千住の森静男・鴎外父子」、『足立史談』三七五~三七六、一九九九年)。
| 年代 | 西暦 | 著作 | 掲載紙、版元などの情報 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 明治7年 | 1874年 | 後光明天皇論 | しがらみ草紙No.113 | 漢文 |
| 明治12年 | 1879年 | 仮死論 | 橘井堂蔵版 | 森静男著。森氏蔵版 |
| 明治14年 | 1881年 | 盗侠行 | 東洋学芸雑誌 | ハウフ童話の漢詩体意訳 |
| 河津金線君に質す | 読売新聞9月17日号 | 署名に「千住森林太郎」 | ||
| 明治15年 | 1882年 | 北游日乗、後北游日乗 | ||
| 医制全書稿本 | 全12巻 | |||
| この頃「源氏物語」中の和歌を漢訳す | ||||
| 明治17年 | 1884年 | 病室着色の事 | ||
| 明治19年 | 1886年 | 日本兵食論大意 | 陸軍軍医学会雑誌3 | |
| 明治21年 | 1888年 | 還東日乗 | ||
| 敢えてK・Nに問ふ | 読売新聞9月29日号 | 帰国後文筆活動の開始といわれる。 | ||
| 日本家屋説自序 | 読売新聞12月5・6日号 | |||
| 隊務日記 | 陸軍軍医学会雑誌24付録別刷り | |||
| マッケンジーの解嘲を読む | 読売新聞12月19・20日号 | |||
| 非日本食論将失其根拠 | 橘井堂蔵書 | 鴎外の医学啓蒙書出版の最初 | ||
| 別天過侠ベッテンコオルフェル氏の書簡 | 東京医事新誌558 | |||
| この頃の書「演劇神髄材料」(未定稿) | ||||
| 明治22年 | 1889年 | 医学の説より出でたる小説論 | 読売新聞1月3日号 | 文学発言の第一声 |
| 音調高洋箏一曲しらべはたかしギタルラのひとふし | 読売新聞1月5日~2月14日 | 弟三木竹二(篤二郎)とともに | ||
| 市区改正果たして衛生上の
問題に非ざるか |
東京医事新誌562 | 本稿をはじめ同誌の主筆として「緒論」欄を設け執筆し戦闘的啓蒙を開始する |
※ 木村繁「千住の森静男・鷗外父子」②(『足立史談』376号、1999年)より転載。
林太郎は、陸軍への出仕した後、一八八四(明治一七)年八月から八八(明治二一)年九月の間、ドイツに留学したが、留学への出発と帰国は、いずれも千住から行われた。出発時には、千住の森家で、静男の師であった松本良順(元幕府医師、初代軍医総監)ら陸軍関係者を千住に招き、千住名物の鰻でもてなした。ドイツから帰国したときも、千住の家に帰っている。このドイツからの帰国時には、林太郎の後を追ってエリーゼ・ヴィーゲルトが来日した出来事もあったことで知られている。この経験などを素材とし、林太郎は一八九〇(明治二三)年に「舞姫」を発表している。
エリーゼ来日後の八八年十一月、林太郎は赤松登志子と婚約し、翌、八九(明治二二)年一月に結婚準備のため根岸(台東区根岸)へ転居した。これが林太郎の千住時代の終わりであった。