林太郎の千住時代の漢詩の師として佐藤元萇(げんちょう)(一八一八~九七)がいた。会津藩の出身で幕府医学館の医師(一八五四年)となった人物で、明治維新ののち千住中組に居を構えていた。「応渠」と号し、漢学者であり医者であった。なお千住では、千住神社にある「西森神社碑」の揮毫者として知られている。
林太郎は元萇に師事し、親密な関係にあったことでも知られている。林太郎の漢詩は、ちょうど千住時代から知られているが、その初期の作品の一つに「待春」がある。この詩について陳生保『森鴎外の漢詩』(上下、明治書院、一九九三年)によれば、原典の署名は「鴎外漁史」であるが、筆跡は佐藤元萇であるという。年代は一八八〇(明治一三)年の夏頃が作製年代として推定され、ちょうど千住時代に該当している(上段掲載)。
林太郎が千住を離れた後も、実家は千住に残っていたが、実家を訪れた際のことであろうか、九一(明治二四)年頃の作品として、「訪應渠先生千住居」(次頁上段掲載)がある。林太郎の佐藤応渠に関する漢詩は、このほか「呈應渠先生」、「訪應渠先生居 偶作」、「詩以代柬復松渓子」、「北游日乘」所載第一首などが知られている。
さらに元萇と林太郎の交流を示す記録として林太郎の「独逸日記」がある。その八五(明治一八)年九月十三日条には、次のような一文がある。
…略…
十三日。朝家書又至る。応渠翁(佐藤元萇)の書に曰く。参商一隔、いかにおはすらんと筆はとれど書やるすべもなく、こゝろ迷ひぬるは、綣恋之情かたみに同じかるべし。まず尊堂も弊廬も無事なるはうれし。さて本月一日大洪水、堅固なる千住橋並吾妻橋押流し、外諸州の水災抔惨状、こは追々新聞等にて御聞に触候はん。略之。五月雨にこゝろ乱るゝふる里をよそに涼しきつきや見るらむ、など口にまかせ候。政之。御令妹このほど御歌は上達、感入候也。書余譲後信。努力加餐。不宣。七月十一日。応渠再拝。牽舟賢契榻下。
…略…
※ 当時林太郎はライプチヒ〔来責〕の下宿におり、前日までドイツ陸軍の演習に参加しており、一二日にライプチヒに帰ったばかり。
※ 森鴎外全集一三『独逸日記 小倉日記』(筑摩書房、一九九六年)を利用。
この引用部分はライプチヒ(ドイツの都市)にいた林太郎のもとにとどいた佐藤元萇の手紙を書写した部分である。八五年には荒川(現隅田川)の大洪水があり、千住大橋も落ちたことで知られているが、ドイツ留学中の林太郎のもとに元萇から知らせが届いたのであった。
漢詩の師弟関係だけでなく、林太郎と元萇が親密な関係であったことを示す好材料の一つであろう。
■林太郎の千住関係の漢詩
①一八八〇(明治一三)年成立「待春」
待春
南廂偶坐悩沈吟 目送凍禽鳴出林
唯喜簾前風梢暖 待花心是待春心
・読み下し 春を待つ 南廂(なんしょう)に偶坐(ぐうざ)して悩(なや)みて沈吟(ちんぎん)し、凍禽(とうきん)の鳴(な)きて林(はやし)を出(い)ずるを目送(もくそう)す、唯喜(ただよろこ)ぶ 簾前(れんぜん)の風(かぜ) 梢(いささ)か暖(あたたか)なるを花(はな)を待(ま)つ心(こころ) 是(こ)れ 春(はる)を待(ま)つ心(こころ)なり。
※ 作製年代から千住時代の作と推定されている。初出=『鴎外研究』三二(一九三九年)
②一八九一(明治二四)年「訪應渠先生千住居」
訪應渠先生千住居
埋光何必白雲郷 混跡醫流偑藥嚢
半榻琴書安淡福 一區泉石吐幽香
松筋竹骨心愈壯 桂実蘭芽芳益彰
幸得凡身登碧舘 遭僊翁又遇仙郎
・読み下し 應渠(おうきょ)先生の千住(せんじゅ)の居(きょ)を訪(たず)ぬ 埋光(まいこう) 何(なん)ぞ必(かなら)ずしも白雲郷(はくうんきょう)のみならんや、醫流(いりゅう)に混跡(こんせき)して藥嚢(やくのう)を偑(お)ぶ、半榻(はんとう)の琴書(きんしょ) 淡福(たんぷく)に安(やす)んじ、一區(いっく)の泉石(せんせき) 幽香(ゆうこう)を吐(は)く、松筋(しょうきん) 竹骨(ちくこつ) 心は愈壯(いよいよつよ)く、桂実(けいじつ) 蘭芽(らんが) 芳(かおり)は 益彰(ますますあきら)かなり、幸(さいわ)いに 凡身(ぼんしん)の碧舘(へきかん)に登(のぼ)るを得(え)て、僊翁(せんおう)に遭(あ)い 又仙郎(またせんろう)に遇(あ)う。
※ 初出=『衛生療病志』一七(一八九一年)。
※ 本項目の読み下しは、いずれも陳生保『森鷗外の漢詩』上下(明治書院、一九九三年)による。