「鷗外」という林太郎の号は、広く知られているが、その号の由来は、千住と関係が深い。第一に「鷗外」の字義は、現隅田川の白髭橋付近にあった鴎の渡しの外という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味している※。
※ 以下、「鷗外」の号に関する事項は、岡田正弘「鷗外という号について」(森鷗外記念会『鴎外』第一四号、一九七四年所収)および中井義幸「鷗外という号について」(同『鷗外』第一五号、同年)による。
林太郎は小梅時代に、曵舟に因んだ牽舟(けんしゅう)という号を用いたり、森という姓に因んだ「参木之舎(みきのや)」という号を用いたことが知られている。建物に至っては千駄木に因んだ「千朶山房」、汐見坂に因んだ「観潮楼」というように地名を織り込んでいる。「鷗外」という号も、これらの例外ではなく、林太郎が住んだ千住のことだったのである。さらにオウガイという音が京都祇園の「鴨崖」に因んで号とした頼三樹三郎を想定し、「遊興の巷吉原に近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味」(中井前掲論文)であった。
かかる字義を持った「鴎外」という号であるが、本来は佐藤元萇の養子、斎藤勝寿(しょうじゅ)が用いた号であったことも著名である。
林太郎自身は、号「鷗外」について「…第一僕が選んだ号ではない。まだ僕が書生の頃、友人の号を借りて使ったのがもとで僕の号になってしまったに過ぎない」と述べている。さらに林太郎の子、森於莵が「あれはよい号だからというので斎藤という人のを貰ったのです。千住に鴎の渡しというのがあります。その外に住んでいるといふ意味でした。」と述べ(※ただし千住地内に鴎の渡しは無い)、勝寿が元々利用していた号であったことを証言している。さらに、勝寿自身も、「元来、『鴎外』なる雅号は最初に私が用いたもので私としては『桂林一枝』に掲げし『品川泛詩』に用いしに初まり、森先生に於かれては、『国民の友』夏期附録に『舞姫』を執筆された時、先生は一言『君の名前を拝借したよ』と言われたが、まさに、この時以来の雅号である。」と証言している(本事項の各証言は、岡田前掲論文による)。
ここで見たように、鴎外という号は、斎藤勝寿が元々用いていたもので、その後、林太郎が借用したのが一般化したという経緯であり、字義自体は林太郎が住んでいた千住を表していたのである。