南足立郡医森静男

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林太郎が千住と関わりを持ったのは父静男が医師として千住とかかわったことが契機としている。静男は津和野藩の医師で、藩の命で松本良順らに蘭医を学んだ人物であった。一八七二(明治五)年の林太郎を伴った上京は、版籍奉還後、東京に移住していた旧藩主亀井茲監(これみ)の侍医として招聘されたことによる。

 一八七七(明治一〇)年に制度化された区医制度(東京府下を五〇の医業の区にわけ医師を配置する制度)の実施にともない、静男は千住町に設置された区医出張所の管理を委嘱され、翌年には区医となった。この段階では向島から千住まで通勤していた。しかし、七九(明治一二)年を迎え、南足立郡の成立にともなって静男は郡医となることとなり、就任に際して、現地で診療所を営む必要があったため、同年六月十七日に千住一丁目一九番地に転居した。そして橘井堂(きっせいどう)医院を開設した。街道沿いには「郡医出張所」と、「橘井堂医院」の看板が並べて掲げられたという。

 静男が区医、郡医として施療を行った頃には、無料診察、実費投薬の同愛社に加盟し、週二回を施療日としていた。そのため橘井堂の待合室のみならず書生部屋や車小屋まで待合いの患者で溢れ返ったという。また一八七七(明治一〇)年に長崎に上陸したコレラが全国的に流行し、八一(明治一四)年から規制道も種痘や検疫に携わった。

 静男の一家は、林太郎が千住を離れた一八八九(明治二二)年一月のあとも千住に在住していた。すこし溯るが、林太郎がドイツに留学していた八五(明治一八)年に郡医を辞していたが橘井堂医院は診療を続け、静男自身も臨時検疫医、無料種痘医として郡との関係が続いた。八八(明治二一)年に林太郎が帰国したときも、静男は家族とともに横浜まで迎えに出かけ、林太郎とともに千住の家に帰ってきている。

 翌年林太郎が千住を離れた後も、しばらく医療活動を続けたが、九一(明治二四)年十二月に引退した。そして翌九二(明治二五)年一月、林太郎が新築した団子坂(文京区千駄木)の家(現文京区立鴎外記念本郷図書館)へ転居、そして九六(明治二九)年に亡くなった。


森静男
千住に橘井堂医院を開業。南足立郡医をつとめた。当時流行したコレラの検疫、予防医療をはじめ無料診療で知られた。
文京区立鴎外記念本郷図書館蔵