千住の家

164 ~ 165

森家の千住の家について、林太郎自身は「カズイスチカ」のなかで次のように述べている。

 …略…あれ(千住の家)を建てた緒方某(岡田某)は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩(たかがり)の時、千住で小休みをする度毎(たびごと)に、緒方(岡田)の家が御用を承わることに極まっていた。花房(林太郎)の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。蓋(ふた)に御鋪物(おんしきもの)と書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。

 火事にも逢(あ)わずに、大ぶ久しく立っている家と見えて、頗(すこ)ぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀(こくたん)のように光っていた。硝子(がらす)の器を載せた春慶塗(しゅんけいぬり)の卓や、白いシイツを掩(おお)うた診察用の寝台(ねだい)が、この柱と異様なコントラストをなしていた。

 …略…        ※( )内は編集の注


 林太郎は、ここで千住の家の歴史に触れるとともに、歴史を感じる重厚な家の雰囲気について触れている。また林太郎は、家の構造も記録している。一八八六(明治一九)年一月にドレスデン(ドイツ)で「日本の住居の一例」と題して講演を行ったときの素材として千住の家を取り上げているのである。この講演はドイツ語版のみであったが、高田渙「鴎外の千住の家」(前掲)で訳出されて広く内容が知られることとなった。


 …略…千住の住民の大部分は商人と農民で、前者は近在の村々に商品を供給している。

 威圧的な北西風を千住の町通りはまともに受ける。日当りは非常によい。家屋が咲きに述べたように、二階か平屋建てだからである。

 父の家の建っている約三〇〇m2の土地は通りの東側にあり、通りから約三百歩へだっている。そして前にある二軒の家屋でふさがっているので、通りからの通路はこの間の二m半の幅の小路を行くほかはない。…略…住居は敷地の北の部分を占め、一四〇m2の大きさである。そして南の部分は庭園で占められている。この家には四人の成人家族、代診一人、人力車を引く車夫一人及び女中一人が住んでいる。家の屋根はかわらぶきであり、玄関は叩きになっている。…略…


林太郎作図の千住の家の見取り図
ドイツでレポートした「日本の住居の一例」で使用した図版
高田渙「鴎外の千住の家」(『足立史談』197より)

この千住の家については前掲の「カズイスチカ」とともに、小金井喜美子の「千住の家」が知られており、家の詳細が記述されている。