河合榮治郎

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 自由主義思想家として知られる河合榮治郎は、一八九一(明治二四)年二月一三日に河合善兵衛の次男として、東京府南足立郡千住二丁目(現在地千住二丁目三〇-七二)で生まれた(本項については『河合榮治郎全集 別巻』〈社会思想社、一九七〇年〉を参照)。


河合榮治郎(『河合榮治郎 伝記と追想』より)

 榮治郎が生まれた河合家であるが、三河の国(愛知県)の住人だったが、祖父善助(のちに善兵衛と改める)の時に、江戸四谷に移住し、やがて千住に転居して住み着いたと伝えられている。

 榮治郎の父・善次郎は一八五五(安政二)年に千住町で生れた。のちに善兵衛を襲名して、嫁に曾代(そよ)を迎えて、五人の子供に恵まれた。家は屋号を「徳島屋」と称した酒屋であった。

 酒屋の次男として生まれた榮治郎は、幼少の頃から利発で、「ぼくは歴史の学者になるんだ」と言っていたという。小学校への入学も、一八九六(明治二九)年千寿尋常小学校へ入学し、通常より一年早かったという。この頃、当時の校長であった小林粂三郎氏(後の潤徳学園幹事)を榮治郎は恩師と仰ぎ、千住に訪れては恩師との再会交流を晩年まで続けたことで知られる。

 榮治郎は親の薦めや小林先生の熱心な薦めで、一九〇二(明治三五)年千寿尋常高等小学校高等科を卒業後、私立郁文館中学校に入学(翌年病気休学)し、〇四(明治三七)年に東京府立三中学校(現在の都立両国高校)第二学年に転学する。その後、〇八(明治四一)年九月には第一高等学校へ入学する。一一(明治四四)年七月に大学予科第一部を卒業し、九月には東京帝国大学法科大学政治学科に入学した。この頃、経済学への志向は河上肇、福田徳三氏の著作からの影響があったという。とりわけセリグマン(歴史の経済的説明)の影響を受け、労働問題に強い関心を持ち、これがライフワークの一つとなった。そして、一五(大正四)年に東京帝国大学法科大学を卒業し、官僚の道に進み、農商務省所属となる。

 官僚になってからは、アメリカへ研究のため赴いて、労働問題を研究し多くの論文を執筆発表している。一九(大正八)年にアメリカから帰国後、日本の工場法の起草に着手するが、上司との意見対立で官を辞することになる。

 その後、二〇(大正九)年四月東京女子大学講師となり、九月には母校である東京帝国大学経済学部助教授として経済学史を担当した。また、一高の講師や、内務省の社会事業職員養成所の講師を務めつつ、国勢院に籍を置くことになる。一九二二(大正一一)年にはイギリス留学し、二六(大正一五)年に帰国後東京大学教授に就任、三六(昭和一一)年には経済学部長に推挙され就任した。