東大教授となっていた頃、日本は国家総動員法の発布や右翼・文部省・軍部の圧迫が増大した軍国主義の時代になっていった。自由主義思想と労働問題面等で、研究をすすめていた榮治郎は、こうした当時の社会的な状況に妥協せず、批判を含めた論考を発表し続けていた。そうした状況の中で、三八(昭和一三)年には「社会政策原理」「ファシズム批判」「時局と自由主義」「第二学生生活」が発禁となると同時に警視庁の取調が始まる。この頃からはじまった榮治郎への圧迫が、戦時中の思想弾圧事件の一つとして知られた河合榮治郎事件のはじまりであった。翌三九(昭和一四)年になると榮治郎は大学を休職し、日本評論社社長と共に東京地方裁判所へ起訴された。翌年東京地裁では無罪となるが、検事局は控訴し、控訴院の審理の結果今度は一転有罪判決が出る。すぐさま大審院へ上告、しかし、上告棄却で有罪決定となった。
こうした国家による弾圧をうけた榮治郎は、この頃から心労も加わり入院を繰り返し、診断結果パセドウ病であることが判明していた。病に陥っていてもカントの研究や、西田哲学研究を続けた。自由主義思想と理想主義のためにファシズムに抗した河合榮治郎は、パセドウ病による心臓麻痺で一九四四(昭和一九)年、五三歳で他界する。
大正から昭和の政治家で、戦後には保守政治家であり著作家として知られた鶴見祐輔は、長く榮治郎と交友があった人物であるが、彼は、榮治郎の死の翌日に枕元を訪れ次のように述懐している。
その晩わたくしは日記に書いた。
『河合君の死により、私は最大の友人を失い、日本は最大の自由主義者を失った』と。
それが個人として、また公人としてのわたくしの感情のすべてであった。
※ 鶴見祐輔「交友三十三年」(『河合榮治郎伝記と追想』、社会思想研究会、一九四八年)
鶴見祐輔のこの慨嘆は、多くの人が共有したものであった(前掲『河合榮治郎 伝記と追憶』)。そして榮治郎の著作は生前に刊行されたばかりでなく、終戦直後の新しい政治体制下で数多く出版され、戦後の自由主義思想や政治に大きな影響を与えたのであった。
河合花白酒屋
河合花白酒といえば「徳島屋」である。この店のことについて記されているものに、仲田定之助著『続・明治商売往来』青蛙房刊がある。
これによれば、徳島屋は徳川の末期、河合欣三郎が千住で醸造を始めたのが最初で、以来三代にわたって家業を続けていた。その後日本橋通一丁目の国分勘兵衛商店に販売を依頼した。その本家である河合善兵衛は徳島屋という家号で、その隣りに酒類販売を営んでいた。この善兵衛の次男が、河合栄治郎である。
河合欣三郎の白酒工場があった千住二丁目、いま都税務事務所あたりに、「河合花白酒本舗」があり、二代目百河合欣三郎が終戦後、千住の店舗を手離して浦和市領家に移り、三代目河合欣三郎が父祖の業を継承したという。