多坂梅里

167 ~ 168

 享保年間(一七一六~三六年)に千住で元信濃国上田の典医で俳人の多坂梅里が、医業の傍ら家塾を開き、五〇年の長きに亙って多くの子弟を教育し畏敬されたことが、千住仲町源長寺境内の碑石「多坂梅里翁碑陰記」によって伝えられている。

 碑文には「駅中の習俗甚だしくは美(よ)からず、書を習い文を学ぶがごときは何んぞ嘗てこれをなさんや」(原文漢文)という状態だった。この子供たちのために医業の傍ら家塾を開き、男女を論ぜず年齢の如何を問わず入学させ、初めは少なかったと思われるが、盛んなときは数百人に及んだという。その教育は読み書きを教えるだけでなく、職業の事、掃除の仕方から、人との対応の節度にいたるまで、全人的教育を行い、その教えは「至厳なり」という。

 また梅里の教育について「師は針の如く、弟子は糸の如し、これ師道の容易ならざるを謂へるかな。翁の如きは真にゆその道を得たる者と謂ふべきなり」と卒業生は称賛している。


家塾と寺子屋について

江戸時代の教育機関については、今日の初等教育に相当する寺子屋と、年齢に幅があり広く教育を実施した家塾等に分類できる。ただし千住の江戸時代の教育機関については、分別が困難な場合が多く、これについては基本的に資料上の記述に依拠した。