千住宿の寺子屋として一七五一(宝暦元)年から一八八六~(明治二〇)年代に至るまで、百数十年という長期に亙り開かれていた寺子屋群雀堂、のちの田迎小学校の創草がわかる、大きな石碑が二基、千住四丁目の氷川神社別社天満宮前境内に「高正天満宮縁起碑」が建っている。同碑文によると宝暦以前(一七五一年以前)は町名主が町中の子供に読み書き算盤を教えていたことが書かれている。千住の町名主は道中奉行支配の宿場役人、問屋も兼ねており、月番には半月一五日問屋場に詰めて、宿駅業務の差配を行っていたから、村方の名主より多忙だったと推測される。そこへ正木昌房が祖母の実家、高梨家へ寄宿し、四丁目名主四代目の信平から寺子屋を開いて子弟を教育するよう勧められ裏庭に家塾を建て寺子屋を開いたという経緯が記してある。