正木檪蔭事績碑

168 ~ 168

先の昌房が江戸で度々火災に遭い財産をなくして祖母方の高梨家に寄宿し、居を千住に定めて寺子屋を開業した経歴を述べた後、日々百人からの子が通学するようになったことを記している。大助六六歳の時、髪を削り雪翁と号し、俗を超越して情の趣くまま酒を飲みながら詩を楽しみ八〇歳で亡くなったという。大助の妻は七女を生み、三人は死に、四人はそれぞれ嫁した。最後に生まれたのが健(撰文者・正木塾三代目)である。天保一二年(一八四一)九月の検地で訪れた代官中村八太夫は大助を見舞い慰めるが、その年一二月一一日に亡くなった。五年後に幕府より、大助の老妻に日々五合の廩米と遺児健に銀五錠(包銀十両五包・五〇両)を下賜して大助の孝養と教育功労を褒章したという。健は「これは父の業績だから石に刻んで後に伝えたい」と碑文を結んでいる。この事は『旧考録』(永野家文書)にも記され(前頁上段資料)、碑文を裏付けるが、当時千住ではこの褒章が評判だったことを窺わせる。