千住の私立学校

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 一八七二(明治五)年、文部省が「学制」を全国に発布した後、東京府は小学校建設の方針を示した。東京府は当時、六大区一一五小区に分かれていたが、その小区一つずつに一校の小学校を建設し、計一一五校を目標とした。しかし東京府のように人口の多いところでは、学齢児童全員を収容するに足る公立小学をすぐさま設けることは難しいから、それまで私学家塾への通学を認めることにした。埼玉県が当初から公立小学一本にしぼって私学を極力抑制したのとは、対照的であった(上掲家塾一覧参照)。

※ 足立の教育に関しては、東京都足立区教育委員会編『足立区教育百年のあゆみ』足立区教育委員会刊、一九八〇年発行と、足立女性史研究会著・鈴木裕子編『足立・女の歴史 葦笛のうた』ドメス出版刊、一九八九年発行が詳しく、本稿はそれに拠っている。

明治初期の千住の家塾
番号 所在地 塾名 塾主 年齢 開業年月 学科内容 生徒数 摘要
男 女 計
1 千住宿中組 東耕堂 村越撲 33 慶応3年7月 筆道・読書・和算 28 48 76 父村越辰之介天保11年11月開業
2 千住宿中組 伊東沙汰之助 54 明治2年6月 筆道 52 55 107
6 千住宿中組 誠光堂 根岸静亮 57 弘化3年10月 筆道 27 30 57 青蓮院流書道
7 千住宿中組 川村隆司 72 弘化3年8月 筆道 16 31 47 龍ケ崎で修学
8 千住宿中組 綾川堂 小林東覚 54 慶応3年7月 筆道・素読 38 19 57
9 千住宿中組 東浦半十郎 23 明治2年4月 筆道 36 42 78 浜松県貫属の子
3 千住宿北組 群雀堂 正木兼輔 37 文久3年1月 筆道・読書 66 55 121 父正木健順に従学修業
4 千住宿北組 木村治兵衛 46 明治4年1月 筆道・読書 40 14 54 近江国蒲生郡で修業
5 千住宿北組 内田元醇 36 安政6年5月 医学・医術 2 0 2 華岡流外科を修業、和洋折衷医学
22 千住宿北組 田中藤兵衛 46 慶応3年2月 筆道・読書 20 11 31 父田中清助に従学

※ 東京府『開学明細書』第六巻による。
※ 明治五・六年家塾明細表=一番~四一番の家塾中の千住宿関係のみ抜抄・番号は明細表の記載順の番号

 私学家塾は過渡的な措置と見られていたから、南足立郡では公立学校が新設されると児童はすべてそこへ移動し、私学は廃業させられることもあった。そのまま廃業する場合もあれば、塾主は新設の公立小学校の教員に転じる場合もあった。また私学家塾を私立小学校へと名称を変え、存続する場合もあった。

 一八八〇(明治一三)年、私立小学校のうち一二校は南足立郡私立小学組合を結成した(別掲図参照)。うち千住地区は、六校であった。人口の多い千住地区は、一九〇〇(明治三三)年千寿女子尋常高等小学校(後の千寿第一小学校)が開校するまで公立は千寿小学校だけで、私立の方が多かった。

 南足立郡私立小学組合が結成された一八八〇年から一八年の五年間に、わかっているだけでさらに一〇校が開校した。うち千住地区は愛吟小が開校し、次いで攸同小、畔上小、堤小、大橋小、驥北小、薗田小の七校であった。千住地区で最後に開業したのは薗田小学校で、明治一八年のことであった。閉校と開業の私立学校の変遷は表(二二五頁参照)をみていただきたい。

 しかし事態は一変した。一八八六(明治一九)年、小学校令が公布されると、東京府はこれを受け、従来設置の私立学校中普通教育を施そうとする学校には、更に認可のための出願を義務づけた。認可の基準は、教員の資格、教員数、授業料、教室の広さ、教授用図書、器械など、細かく、厳しく定められていた。

 ここに至って、私立小学校は閉校が相次いだ。次に示すのは伊東小学校の閉校届(別掲図参照)である。

 私立伊東小学校閉校届

       南足立郡千住中組八百三十四番地

            私立

                  伊東学校

右従来開業罷在候処這般都合ニ付閉業仕度此段御届申上候

           右校主

                伊東敬雄印

明治十九年十二月十五日

東京府知事 高崎五六殿


前書出願ニ付奥付仕也

           右戸長

                 橋本知宣印

 この閉校届を出した千住中組の伊東小学校と嘉兵衛新田の綾東小学校について、閉校届受理の資料がある。閉校の事由を、両校は求められる小学校の普通教育を行なうことが不可能であると明記している。

 府第三六四号

当郡嘉兵衛新田私立綾東小学千住中組伊東小学別紙之通閉校届出候ニ付取調候処小学校令第十四条ニ拠リ小学校ト均シキ普通教育ヲ施スコト不能モノニ付申出之通御聞届相成 度此段及上申候也

 明治十九年十二月廿八日

            南足立郡長 蔵田信印

 東京府知事 高崎五六殿

 伊東小学校がここに至って普通教育を行うのが不可能、と判断された理由はおそらく、府の認可がおりるような資格をもつ人材を確保するのは、私立学校では難しかったためと考えられる。『足立区教育百年のあゆみ』一六七頁に、その資料を読み起こした次のような記述が載っている。義務づけられていた認可出願の期限を過ぎてから出願した学校の取り扱いについて、郡長から府知事に伺いを立てた、その大要である。

「本郡内私立各小学校はその出願すべき期限を経過し、今日に至って漸く願書を差し出すものがこれ有り、調査してみると遅延の理由は大概資格ある教員を招聘しようとしたためであった。(中略)元来当郡内の私立小学校で、中等科の資格ある教員は二、三校で、その他は初等科のもののみで、大概不完全な学校である。(中略)資格のあるものがいない小学はもちろん、たとえ資格があっても今日まで出願しなかったものは、断然閉校を命じたいと考えている。(後略)」

人材面だけでなく、経営の面でも私立校は苦しかった。公立小学校と比べて収入は低かったようだ。公立は授業料の他に社内教育費があったが、私立は授業料が主な収入である。私立学校への町村費補助は不当とされており、代用私立小学校となって補助金を受ける以外は、授業料に頼らざるを得なかった。

 私立驥北小学校と私立薗田小学校の経営収支が『足立区教育百年のあゆみ』一七六、一七七頁に掲載されている(上掲資料)。

 これに比べて、一八八二(明治一五)年の公立綾淵小学校の概況(『足立区教育百年のあゆみ』一七八頁)では、たとえば教員二名に支払われる給料総額が二二八円となっており、前記私立の約二八倍であった。私立校教員の給料は低く、校中諸費に至っては格段の差があった。資格のある教員を雇おうとしても、経費に余裕がなくて難しく、実際には資格に該当しない教員も多く働いていたという。また認可に必要な教材や器材を揃えるにも、十分な予算がなかったのかもしれない。

 こうして千住地区の教育に大きく貢献した私立小学校は、明治三〇年代まで存続した。「南足立郡明治三十一年末私立小学校表」(別掲図参照)によると、一八九八(明治三一)年に千住地区では村越尋常小学校・愛吟尋常小学校・驥北尋常小学校の三校のみとなった。この頃から公立小学校の増設が進み、私立小学校は過渡的措置という当初の使命を終えた。

 次に千住地区の小学校のうち、記録が詳しく残っていたものを学校別にまとめてみる。