愛吟女学(後の愛吟小学)

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愛吟女学(のちの愛吟小学)が千住宿中組八三九番地に開業したのは、明治一三年(一八八〇)九月である。校主は関澄(せきずみ)タイである。関澄タイは同校の開設者であるが、一八九八(明治三一)年には設立者が横井繁太郎とかわっている、という記録もある。使用された教科書は『足立区教育百年のあゆみ』一六五頁に「生徒心得・小学読本・東京府地誌略・日本地誌略・日本略史の外家事倹約訓・母親の心得・子供草」であったとされる。教則にも四級から裁縫があり、襦袢・単衣から袴・羽織まで二年間で指導することとされた。

 明治一五年(一八八二)に校主関澄タイは、教員任用の上申をしている(『足立区教育百年のあゆみ』一六五頁所収第二六図「愛吟小学教員採用上申書」)。それによると採用予定者関澄鐘次郎の履歴書を添えて、上掲載のような上申書を東京府知事に提出している。

 東京府学務課は「同人儀ハ別紙履歴書之通本府師範学校ニ於テ二期速成科卒業ノ者ニテ既ニ今般中等科教員免許状下附相成候者ニテ不都合之儀無之」と認可するよう知事に書類をまわした。私立小学校の教員でも、有資格者を知事が認可するという方式をとっていたことがわかる。

 都政史料館編『明治十八年渡辺府知事管内巡回記』に、愛吟小学の様子が記されている。愛吟を視察したのは一〇月二六日のことで、この日はとくに学校視察の日とみえて、他の公立小学校を数多く視察していた。

 (前略)本木校授業并体操一見ノ上出立、午前第一〇時一五分千住二丁目私立愛吟小学校ニ至ル、該校之教員八校主ノ外三人アリ、明治一二年開校ス、校主女子ナル為メ女生徒多シ、即チ男四七人女六八人アリ、習字本ハ校主ト教員関澄鐘太郎ナルモノト両名ニテ之ヲ出スト云フ、月謝ハ一人一二銭ヨリ一五銭迄トス。(後略)

「小学校令」によって閉校する私立が相次いだ年に、同校は教場の増築を行なう。『足立区教育百年のあゆみ』一七一ページに掲載されている文章によると、「明治一九(一八八六)、教場を増築した。増築認可届によると、生徒定員一三〇名、敷地・建物とも借用である。建物は二棟あり、教場は計三五坪でうち七坪半が増築分、教場に接続した七坪半の住居がある。」となっている。校名を「愛吟小学」と改め、男女共学にして明治三〇年代まで存続したとされる。


■愛吟小学校の関係資料

  上申書

           東京府下南足立郡

            千住壱町目三番地

               関澄鐘次郎

一、履歴 別紙ニ記ス   文久弐年九月十四日

一、住所 南足立郡千住壱町目三番地

 右者私立愛吟小学教員ニ任用仕度候間、御許可相成度此段上申仕候也

          南足立郡千住壱町目三番地

          私立愛吟小学校主

明治十五年六月九日     関澄タイ印

          同郡千住壱町目

           学務委員

              加藤長右衛門印

 東京府知事松田道之殿

前書之通上申ニ付奥印候也

明治十五年六月十六日 右

            戸長

府第弐拾五号        永野彦右衛門

         南足立郡長森長義