千住の私学、中等教育に尽力した堀内亮一は、山形県藩士上杉家の家臣だった堀内忠淳の嫡子として、一八六〇(万延元)年一〇月一〇日現米沢市元籠町に生まれた。二歳で母、四歳で父と死別し、そのため祖母に育てられ、苦学しながら宮城県立中学校に学び、のち東京帝国大学医科大学別科へ進んだ。
大学を一八八七(明治二〇)年に卒業し、翌年開業医免許を取得して、一八八九(明治二二)年一二月東京府下千住仲町五八-一の地で「好正堂医院」(現在地千住仲町一九-二七)を開業した。この医院名は藩校の名にあやかって付けたという。
亮一氏の主な経歴をあげると、一八九二(明治二五)年八月南足立郡医、九四(明治二七)年六月警視庁嘱託医、一九〇二(明治三五)年四月南足立郡病院長嘱託、一九〇〇(明治三三)年五月から一七年千住町町会議員、一七(大正六)年五月千住町教育会長に当選、一九(大正八)年八月南足立郡郡会議員、二二(大正一一)年四月南足立郡郡医師会長に就任した。翌年七月千寿幼稚園設立、一九二四(大正一三)年二月潤徳高等女学校を設立し理事長となった。二九(昭和四)年南足立中学校、同商業学校を設立しこの学園においても理事長を歴任し、私立学校としての盤石の基礎作りに専念した。
四五(昭和二〇)年六月二五日疎開先の長野県上伊那郡赤穂町(現在の駒が根市)で逝去した(享年八五歳)。
亮一氏の業績の中で特筆すべきことは、足立区に私立女子校と男子中学校を創設されたことである。
関東大震災で荒廃した城東地区にまだ女子、男子の中等教育の場がなかったことを憂え、この地区における子弟の教育の必要性を、いちはやく痛感したのが、地域の先覚者堀内亮一氏であった。