将軍御休息所・仮御殿御造営

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勝専寺は、二代将軍徳川秀忠が鷹狩をした際に休息所となり、三代将軍徳川家光の時代には境内に御茶屋が造営され、たびたび立ち寄っている(『旧考録』後編十 勝専寺仮御殿・小菅御殿・鶴竹亀竹)。『風土記』には、

 御殿蹟 本堂ノ南ニアリ。コノ地ハ昔新井政勝ガ住セシ所ナリ。後遙ノ星霜ヲヘテ。  大猷院殿ノ御代ニ御茶屋ヲ設ケラレシヲ。慶安二年。

  厳有院殿日光御社参ノ時。御殿ヲ御造営アリテ御旅館トナリシガ。折節荒川満水セシニヨリ。三日マデ御滞留アリ。其頃ハ年々金百両。米百俵ヲ賜ヒテ。修造ノ料ニ充テラレシガ。延宝八年大風ノ為ニ御殿廃壊セシニヨリ。御座所ノ跡ノミ土ヲモリ上テ存セシガ。ソレモ近来ハ陸田トナレリ。

とある。一六四九(慶安二)年、徳川家綱(一六五一<慶安四>年四月、四代将軍に就任)が日光に社参した際に仮御殿が作られ三日間逗留した。御殿の修覆料として、毎年金一〇〇両・米一〇〇俵が与えられたが、一六八〇(延宝八)年の大風で倒壊してしまった。跡地は境内地であったため、勝専寺が拝領した。その後、御殿跡地は竹薮になったが、一八一七(文化一四)年に鶴と亀の形をした珍しい竹が生え、多くの見物人が訪れたという(『旧考録』後編十 勝専寺仮御殿・小菅御殿・鶴竹亀竹)。

 勝専寺の仮御殿は一六八〇(延宝八)年になくなったが、千住宿本陣の代わりを勤めることがあった。本陣は時代によって一~二軒あったが、差支えがある時には、勝専寺のほか、源長寺・慈眼寺などがその代わりとなった。