鐘楼の基壇側面に鐘楼建築記念碑が刻まれている。碑文によれば、はじめ一七七五(安永四)年に近隣十余ヶ町村の人々の義捐金で、この「時の鐘」を建造し、日夜時刻を報じていたが、一一七年経って鐘楼が破損した。明治になって各自時計を持ち、また鐘を鳴らすのも煩わしいと話もあったが、祖先の造ったものであり、永く伝える必要があること、農業をしている者にとっても重要であること、千住唯一の梵鐘などとして非常警報用としても重要だということになった。鐘楼再建のための資金を募ったところ、南足立・南葛飾・北豊島三郡から多くの金額が集まり一八九一(明治二四)年四月に落成した。この再建に加わった人三千余人とある。なお鐘楼再建記念碑の撰文は、日本に亡命し奥村五百子(いほこ)らに保護され、東京に放浪していた朝鮮の革命家金玉均(キムオッキョン)の書いたもので、碑文の揮毫者中根半嶺は日本書道会創立に尽力した隷書(れいしょ)の大家である(碑文全文は『足立風土記資料金石文1 記念碑等』を参照)。
『勝専寺史』によれば、碑文にでている鐘は、一九四五(昭和二〇)年六月に戦争のため供出してしまった。現在の鐘は一九五九(昭和三四)年一〇月八日に土地の有志によって再鋳されたものである。
千住のボロ市 一九七〇年ころまで、勝専寺の境内で千住のボロ市といわれる古着の市が開かれていた。『勝専寺史』によれば、このボロ市の起源は明らかではないが、千住が日光道中の初宿であり、江戸に入る旅人が汚れた旅装の足袋・股引などを脱ぎ捨て整えたことから、その古着を繕って売る商人がでてきたといわれている。また江戸市中の町人たちから出る古着やボロなどが、近郊の人々に利用された。
ボロ市は明治中頃には千住二丁目から三丁目にかけての旧道沿道でも開かれていたようであるが関東大震災頃には交通事情などから、旧道では開かれなくなった。商品も旅装のボロでなく、紋付袴、裾模様などの儀式着までの古着が主流となり、むしろを敷き、ひもに吊して売っていた。このむしろの貸し賃(場所代)が町内会の収入にもなった。
一九三一(昭和六)年ころ、寺門前の悪水落としが暗渠になり、道幅が拡張されたことから、ボロ市は境内・大門通りおよび拡張された裏道の両側に軒並に開かれるようになった。
戦中の衣類配給時代および戦後の混乱した時代には、ボロ市はヤミ市に様子を変えたが、経済の安定とともに元の姿に復し、商品が多く出廻るとともにその規模内容も変化していった。場内には板・ござを敷いた、〝ころび〟や、組立屋台の〝三寸〟などで出店が点々と並び、下駄・草履・瓜革の履物、和服類・洋服類・手袋・靴下・毛布、さらには紋付衣裳を売る店などがあった。
近年、復活してはという声も聞かれたが、現在では千住の旧区役所跡地で、休日には「フリーマーケット」がその代役を務め、時代の変遷を感じる風景である。