天保餓死者供養塔(無縁塔)

195 ~ 195

天保飢饉の餓死者の供養塔で、当時の千住二丁目名主永野長右衛門が世話人になり、一八四〇(天保一一)年に建てたものである。遊女供養塔とともに有形文化財に登録された。その碑文には、

 ひとの世にある、誰か生の始めを知って又それ誰か死の終を知るや、時維、天保八年のとし、その年いかなる年にや有けむ、餓て下民に食なし、忝も上救屋を造て扶させ給といへども、或疲、或病て此地に死せる者、八百二十八人、他に数ふるいとまあらず、三百二十一人を勝専寺に葬、六十一人を慈眼寺に葬、七十六人を不動院に葬、三百七十人を金蔵寺に葬、憐むべし四海皆兄弟ならなくてぞ、人は恋しきものを加ふれば、御代に残れる幸を知らむ。恵の灯をかかげて、此のなき人らが霊を弔ふ無縁の塔と記し侍れど繋縁法界の心にもせめては、かないざるべきにや。

  消えて行く露のやどりに

      あだし名の何忘草何忘草

と追悼の言葉が刻まれている。これによると、一八三七(天保八)年は飢饉のためにお救い小屋で食料が与えられた。しかし、千住で病死、衰弱死した人は八二八人にのぼり、千住の四つの寺に分けて葬られた。天保飢饉の悲惨さを伝える資料である。


天保餓死者と千住遊女供養塔(足立区登録文化財)