源長寺 (千住仲町四-一)

197 ~ 197

 稲荷山勝林院源長寺と号す。浄土宗の寺院で本山は京都府の知恩院である。戦災で山門・本堂・庫裡を焼失し、寺の由緒・縁起を伝える文書は残されていない。しかし、源長寺の創建について、『風土記』には次のように記されている。

 源長寺 浄土宗。入谷村源証寺末。此地モト稲荷ノ社地ナリシヲ。慶長十五年。石出掃部亮実ニ草創シ。伊奈備前守忠次ニ譲リテ開基ト称ス。故ニ地主神ノ号ヲ取テ稲荷山ト号シ、忠次ガ法謚ヲ以テ寺号トス。院ヲ勝林ト云。昔ハ松林ト書シトソ。開山僧圓誉不残。元和三年九月三日寂ス。本尊弥陀ハ慈覚大師ノ作ニテ。モト秩父郡三峯山ニ納メシ火盗両難除ノ像ナリトイヘト。当寺ニ伝来スル故ヲ詳ニセス。

源長寺は、一六一〇(慶長一五)年、寿稲荷(『風土記』によれば一五四七<天文一六>年鎮座)の社地に創建された。石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が草創したが、伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)に譲り開基とした。このため、地主(じしゅ)の神(土地の守護神=稲荷社)の号から山号を、忠次の法号「勝林院殿秀誉源長久運大禅定門」から寺号とった。開山は不残で、一六一七(元和三)年九月三日に入寂している。不残は忠次の墓所がある勝願寺(埼玉県鴻巣市)の中興二世でもある。江戸時代には源証寺(入谷二丁目)の末寺であった。本尊は阿弥陀如来で、平安時代前期の僧慈覚大師円仁の作で、もとは秩父の三峯山に火盗除けの仏像として安置されていたという。

 源長寺は、一八一六(文化一三)年の日光門主および一八五〇(嘉永三)年の勅使・日光門主通行の際に本陣の代わりを勤めた(『旧考録』後編「二日光門主の通行」「二四 嘉永三年脇本陣御用」)。また、一八四八(嘉永元)年と一八五〇(嘉永三)年に徳川家祥(いえさき)(一八五三<嘉永六>年一三代将軍就任、家定と改名)が鷹狩に訪れた際、御膳所(休息所)となった(『旧考録』後編(二二 千住宿鷹野記録)。

 『足立区文化財調査報告書 庚申塔編』には、源長寺の庚申塔として三基載っている。一六六四(寛文四)年一〇月一五日のものは笠付角柱型で定印弥陀坐像が陽刻されている。残り二基は駒形庚申塔で青面金剛が刻まれており、一基が一六九六(元禄九)年五月四日造立、もう一基は造立年未詳である。



現在の源長寺本堂と焼失前(関東大震災前)の山門・本堂