千住名倉医院(千住五-二二-一)

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 名倉と言えば骨接ぎを指し、骨接ぎの代名詞となる程の全国に名の知られた名倉家が千住にある。

 名倉家は、江戸時代中期の寛文か元禄年代のころ、千住に移り住んだ。千住四代目の名倉直賢が、楊心流柔術、接骨術及び絞めわざによって一時的仮死状態になった人に行う人工呼吸法「死活」の術を木村揚甫に学び、その奥儀を極めて、一七七〇(明和七)年頃に接骨業を始めた。

 子孫はこの直賢を「業祖」と崇敬し、代々この家業を継ぐようになった。

 骨折や脱臼の患者が江戸市内といわず関東一円から千住へ押しかけ、夜が明けると旧道は戸板や駕籠の行列で埋まったといわれる程であった。

 明治七年、同一六年に「医制」が制定され、医術開業試験など国家試験合格者のみに「整骨科」「接骨師」の開業が認められるようになった。名倉家子孫は、業祖の意志と家業の伝統を受け継ぎ、整形外科医院として続けている。

 最盛期と言われる一九一九(大正八)年から一三年頃は、一日の患者が三百人から五百人もあったという。謙蔵の日誌の中に「大正九年一月二日は正月早々でも二百十人を越え、同年五月二十四日は六百三十名来診」と記載されている。

 これら患者の中で遠来の人や重傷者は医院近隣の萬屋(田村伊之助)、成田屋(荒木正太郎)、大原屋(鈴木忠蔵)、金町屋(平尾仙太郎)、柳屋(大塚勝利)といった五軒の専門旅館に宿泊して治療を受けた。一軒に一〇人から三〇人ぐらい収容でき、五軒で百人から百五〇人まで泊めることができた。その費用は、昭和一六年で一日三食付一円五〇践の宿賃だったという。各宿屋の主人は医師または整骨師であった。一九五四年ごろの地図には、名倉医院の近隣に「名倉医院患者下宿」と記載されている。


名倉の診療の様子(1958〈昭和33〉年撮影、佐野キシさん提供)


患者で込み合う診療室


領収書(明治36年、手術と薬代で1円79銭


下宿で治療を受ける名倉の患者
(1958〈昭和33〉年撮影、佐野キシさん提供)


名倉医院の患者下宿屋
1905(昭和38)年太田晙三さん提供

 名倉家の治療の特色は、いわゆる名倉流と言われる練り薬「黒膏」と「あて木」すなわち副木、包帯にある。これらを用い、独特の整復術と共に、見事な患部固定を行うことである。当時は「秘法」として秘密にされていたが、後に提出を義務づけられた「売薬御免許願」や「売薬営業鑑札満期御書換願」には家法として骨接薬の処方と製剤分量が記載されている。副木の作り方、包帯の巻き方に名倉一流の技術があり、名倉の包帯は弛まないと有名であった。