千住の町並みの中でも、千住四丁目の横山家宅あたりから五丁目にかけての家並みが、千住宿の名残りを今に伝えてくれる場所である。
勝山準四郎氏の「足立の史話」の中にも「旧道も四丁目まで来ると落ち着いた感じがする。たしかに宿場時代にも、二・三丁目は旅客中心の町であったが、四丁目はどちらかというと、むしろ近在の農家相手の店が多かった。戦前まで荷車を造る車屋があったり、馬の蹄鉄を打つ店があったりして、そんな名残りを感じさせる町であった。」とある。
千住宿の家並みの中に伝馬屋敷の面影を今に伝えているのが横山家である。二階造りで窓には格子が整然とはめられひときわ目立つ落着いた風格を持っている商家の古民家で、区有形民俗文化財になっている。
地漉紙は江戸時代から「浅草紙」として、市中を相手に商売をした。横山家も、梅田や本木など近隣農家から地漉紙を仕入れ、日本橋の方へ売りさばいていた商家である。浅草紙は一般に「落し紙」(トイレットペーパー)であるが、それ以外にも地漉紙は作られていた。
『紙漉史考』の「千住方面の紙漉」によれば、浅草で漉返した「浅草紙」の起源を寛永年間と考えれば、千住の「浅草紙」はそれから約五〇年後に始めめられたことになる。
横山家の店舗付住宅は、千住四丁目の日光道中の東側に建っている。蔵の棟礼には、天保元年(一八三〇)とあり、蔵の汁器入れの木箱には、文政二年(一八一九)と書かれているので、一八五年以上経っている。
商売をやるからには、お客様を上から見おろすような格好ではいけない。「お客様を迎え入れる」と言うことが何よりも大切で、昔からこの家は道路より一段低く建てられていたと聞く。商人の心得、商売に徹する心意気が表れている。
関東大震災には、部屋が潰れたり、家の取付がくるって、大修理をしたという。
また、明治維新の上野戦争の折には、彰義隊士によって街道近くの柱に刀傷を付けられたり、太平洋戦争の火災も免れ、今日まで残ってきた。なお同家の蔵の一つは、現在では千住歴史プチテラスとして再利用している。また、この横山家の店先帳場の部分は郷土博物館に復元して展示している。