絵馬絵師の吉田家については、一九八五年三月刊行の『足立区文化財調査報告書 絵馬編』(足立区教育委員会社会教育課発行)と、一九九四年三月刊行の『江戸東京の諸職 下―東京都諸職関係民俗文化財調査報告―』(東京都教育庁生涯学習部文化課)に詳しい。
吉田家は現在の吉田晁子さんで八代目にあたる。吉田家の系譜を資料にもとづいて遡ると、五代弥五郎から、その子弥五郎(六代目東斎)へ、六代目東斎からその子政造(七代目東斎)へと続く。小さい頃から店に出て胡粉とぎをさせられていた政造は、大正の末に千寿尋常高等小学校を卒業した後、父弥五郎から絵馬作りの技術を習得する。
七代目を継いだ政造は、絵馬寿(ひさし)の俳号で俳壇でも活躍したが、一九七二(昭和四七)年二月に逝去する。その後は江戸武者絵凧の凧絵師、今井鐡蔵(龍谷)が、千住絵馬を製作してきた。
一九八一(昭和五六)年に今井鐡蔵が逝去すると、千住絵馬作りは一時中断した。多年にわたり千住絵馬を求め、その時々の祭礼に絵馬を掲げてきた多くの顧客の強い要請により、政造の娘、晁子さんが千住絵馬を再開させた。
晁子さんは父政造から、見よう見まねで技術を修得したという。現在の画風は、直接には大正から昭和十年代に活躍した六代東斎の画風で、七代、八代と継承してきたことになる。
吉田家は際物問屋組合に属し、千住宿内や近郊農村の人々に絵馬、地口行灯、ビラ類の製作、提灯の揮毫をなりわいとしていた。現在は氷川神社祭礼のぼんぼり用の飾りの花や、その他の飾りの花なども作っている。
吉田家の絵馬は小絵馬を得意とし、経木に絵を描き木枠の屋根をつけた形式で、闊達な画風をもつ。かつては経木に描いただけの単純な付木絵馬もあった。すべて個人へ販売しており、社寺への卸売りはしていない。図柄は四〇種類余りあり、定まっている。眼病平癒を願う「薬師(向かい目)」や学業成就を願う「天神」のように、祈願の種類別に図柄が決まっているものと、埼玉県三郷市虚空蔵堂に奉納するための「うなぎ」の絵馬のように、特定の社寺やお祭りだけに奉納するものとがある。
千住絵馬の伝統が晁子氏に引き継がれたことで、一九八二(昭和五七)年一二月、区登録無形民俗文化財保持者となり、一九八五年、吉田家絵馬資料一二面が区登録有形文化財となった。