新開橋

212 ~ 213

 一九〇九(明治四二)年四月二日、新開橋が開通した。この橋は現在の千住橋戸町四九と河原町二三に挟まれた旧日光街道上、千住市場の入口辺りから旧道を北へ京成ガードの少し手前の所にあったという。

 『大正十五年版郡誌』には次のように記されている。

「新開橋、橋戸と河原との間にあり。此地元河川にあらざりしも、荒川の流域に属する底地なるを以て、少しく増水すれば忽ち氾濫して人車の交通杖絶するを憂ひ、明治四十二年の秋初めて架設せられたるものなり。」

 橋の規模は不明であるが、写真で見るかぎり幅四間(千住大橋と同じ)長さ二七~八間あったと思われる。『大正五年版郡誌』には「橋梁の最も大なるものを荒川に架する千住大橋・新開橋としこれに次ぐを綾瀬川に架する匠橋・嘉平橋・伊藤谷橋等とす。」と記されている。この記述からも新開橋が大橋に匹敵する大きさであったことが分かる。

 江戸時代の千住地図に、この辺りは「河原縄手長さ百二拾間幅五間」と記されている。ここは沼地であるから大雨の度にいつも冠水した。度々町費で修理を行うため、名主たちがたまりかね、幕府持ちの費用で工事してほしいとの嘆願書を、一七五七(宝暦七)年六月に代官所に提出している。

 明治期になると東京府は、この河原たんぼに橋を架けて、大水でも交通止めにならないようにしたのである。この当時の橋は木造であり、中央が高いので重い荷車は一人では上がらなかった。そこで、橋の両側に後押しをする人達がいて、五銭ほどの賃金をもらっていた。新開橋と千住大橋の二つの橋を押し上げると八銭~一〇銭になった。この人達を「軽子」とか「立ちん坊」とか言い、常時六〇人くらいは待機していた。

 新開橋は開通の翌年、一九一〇(明治四三)年八月の大洪水で浮き上がり、中央から二つに折れて流れだした。新設から一年四か月の寿命であった。新開橋はその後再建されたが、一九一三(大正一二)年から一五年にかけて進められた新国道(現四号線)建設工事によって水路は埋め立てられ、不用となった新開橋は取り除かれた。

 しかし、土地が低く浸水しやすいことは変わらず、そのころ、江北から野菜をヤッチャバに売りに行っていた矢萩三保三さんは、「昔、ヤッチャ場と千住大橋の間は河原田んぼと言われ、低い所を国道が通っていた。荒川が大水になると、この道に水が上がり車が通れなくなった。こんな場合、投仕(千住で仕入れた荷を京橋、品川など他の市場へ運んで売りさばく者)の大八車も、他の牛馬車も、向島の土手に出て吾妻橋を渡り、旧市街へ行く道をたどった。でも徒歩や自転車の人だけは、千住町役場で舟を出して河原町から千住大橋まで渡してくれた。無賃なので、この舟を御用舟といった。」と『江北村と足立』の中に書いている。


1921<昭和10>年頃の新開橋