千住河原町といえばヤッチャバであった。多くの問屋が軒を連ねていた街並みは、姿を変えた。歴史的な街並みの変化がもっとも大きい場所の一つが、このヤッチャバ界隈であろう。
大きな瓦屋根の家並みは空襲で失われ、取引が行われた問屋前の石畳だけが戦後も残されていた。しかし現在はその石畳も、一部が残っているだけである。今、かつての隆盛を惜しむ地域の有志によって、旧街道筋のヤッチャバ問屋跡に、屋号や扱った品を記した看板が掲げられ、往時を伝えている。
ヤッチャバというのは、競り売りの声が語源だという。「上等の根三つ、そらっいくらっ、ヤッチャンヤ、ヤッチャンヤ!」と買い手をうながすかけ声が飛び交っていたので、ヤッチャンバ、とかヤッチャバとか言えば千住市場のこと通じるようになったという。(矢萩三保三「江北の野菜づくり」)
ヤッチャバの起源については明らかではないが、河原稲荷神社の境内に「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」(明治三九年建設)がある。この記録に従うと市場開設は、一五七六(天正四)年に当たるが、あくまでも語り伝えをもとにしたものである。実際は各地に残る朝市のように、何時とはなく自家製の野菜や川魚を道端に並べて商売を始めたのが起こりであろう。市場開設を何時からと断定するのは大変難しいことである。
『風土記』(天保年間編)には「享保ノ頃ヨリ毎朝市ヲタテ。五穀野菜。或いは川魚ヲヒサクモノ日ニ盛ナリ。故ニ明和年中(一七六四~)ヨリ各問屋ヲ立テ税ヲ集飲ム」とある。物資が大量に出回り、専門店相手の問屋が必要とされた江戸中期に、卸売市場として機能したとみられる。
江戸時代、幕府御用市場として千住、神田、駒込、の三市場は、青物を上納していた。その証拠として「千住青物市場江戸城納品御用札」が、中央卸売市場足立分場に保存されている。これによると、江戸城には慈姑(くわい)、蓮根、芋などが納められていたことが分かる。「御用札」の威光は、お上のご威光であった。その権勢ぶりを、『南足立郡誌』(一九二六年、南足立郡教育会)は次のように伝えている。
「幕府御用達の納品は、川魚の外蓮根(れんこん)、慈姑(くわい)、芋類等にして、之を江戸橋の御納屋に納めたりと、而して若し納品当市場にて不足を生ずる時は、神田市場等より之れを調達して納入せしといふ。其状況を聞くに当市場又は神田市場より搬入する際には、縦令大名の行列たりとも之を横切る等の事あらんか、其理由を問はず、剥禄或は一刀両断せられしといふ。如何にその権威の大なりしかを知るに足るべし」
「千住市場議定書」一八四八(嘉永元)年の末尾には三八人の問屋衆が名を連ねている。大正期には千住市場の問屋数は三二軒、昭和一六年の市場合併の際は三〇軒であった。
千住ヤッチャバは他の東京府内の市場(神田、浜町、日本橋など)に比べ、特殊な流通機構を持っていた。それは投師(なげし)である。彼らは千住の問屋でいち早く仕入れた品物を高価に取引されそうな市場へ入荷する商売をする者である。投師の働きによって、千住市場へ集中した農作物を他の市場へ分配し、東京中に流通させる仕組みが成立していた。
大正の始めより千住市場へ野菜を運んでいた江北の矢萩三保三さんは「この人達は千住市場から生鮮野菜を仕入れ、大八車に満載して、近くは神田、京橋、品川、遠くは川崎・横浜辺りの青物市場の朝市に間に合うように運び、儲けていた人達である。千住市場に出る品物の中で、他の市場には少なかったり、まったく出ない荷などが投師の対象となる荷である。朝一番早くヤッチャバへ出てくるのはこの投師であった。自分の行く先の市場に必要な青物類を見て回り、必要な荷は『引荷』した。引荷とは、問屋の主人と話し合い、競りの前に買って、値段は残った品物が競りでつけた値段で後払いするのである。時に、荷が少ないと全部引荷した。この場合、『値切り』といって幾分高い値で引荷した。競りが始まる頃、投師達は大八車に野菜を満載して、雇い人や軽子に綱引きや後ろ押しをさせて、エッサエッサと河原町から橋戸を経て、千住大橋を渡り目的地へ向かった。」と記している。
勝山準四郎氏が調べた、大正一二年三月東京市商工課編の「青物市場調査資料」によると千住市場の一か年の総取引高、二一七万余りの中で、他市場への転売が一四六万円余りとなっている。約七割に当たるわけで、投師の働きの大きい事が分かる。また、このためもあって、市場の取引はおよそ朝六時頃から始まっているのに、千住では、問屋でのせり市が四時から始まっていたという。前記資料によると「投師は現在百三十人おり、内神田市場へ四十人、京橋市場へ三十人、浜松市場へ十八人、日本橋魚市場へ十人(主としてツマ物、モヤシ等)、その他へ三十二人」と、およそ定まっていた出先が記されていた。それだけによその市場でもまた、この投師を当てにして待っていたわけである。
また、大八車に山積みされた野菜は、投師に頼まれた運搬専門の「軽子」達によって他市場へ朝早く届けられた。前記の資料にはこの様子が次のように記されている。「試みに下谷三の輪の電車通りより見れば、暗き千住大橋付近より、提灯に点火したる荷車、陸続として来る。これ皆投師の車にして、その数の多きこと、その朝早きこと、けだし何人も一驚を喫すべし」
ヤッチャバは東京市足立区千住河原町二四番から九一番の間にあった。旧陸羽街道に沿い東側五九番から九一番の二号、西側は二四番から五六番にまたがり、交通の要衝であった。