一九四五(昭和二〇)年二月、東京中央卸売市場足立市場は開場した。青物と鮮魚の総合市場ではあったが、当面鮮魚部として北魚市場が西新井(現、桜木町二丁目)から移転してきた(同市場については別項参照)。終戦半年前で、空襲が激しさを増し、東京は焼け野原になりつつあった。
移転計画は昭和七年の東京市の市域拡張の折りに作られた。市域の広がりによって、東京は人口五〇〇万人の大都市になり、中央卸売市場の機能を維持するには、第二次市場を増設し、また、従来からあった民間の市場も統合収容する必要に迫られたのであった。この第二次分場計画のうち豊島、淀橋、と順次着工されたが、足立分場の土地買収(千住橋戸町五〇番)が一九四二(昭和一七)年に完了した時は、すでに太平洋戦争が始まり、物資が不足し、建設は困難になっていた。四五年開場式は、事務所、卸売場、分荷場などバラック四棟の完成を見て行われた。青果部は未完成であったため、魚類部だけが入場したのである。しかし開場一か月後に空襲によって一部を、二か月後にもほとんどを消失する被害を受け、仮設バラックで、細々と配給業務を続行した。終戦後も市場の設備はほとんど改善されぬまま、バラックと無舗装の市場だった。市場関係者の人々が乏しい資材を集めて最小限の補修を繰り返して、営業していた。この状態が六年続いた。その間、仲買制度の復活、荷受け機関の整備統合など、戦後の卸売市場の難問が次々に解決されていったが、残されたのは市場の整備拡充の問題だった。
一九五二(昭和二七)年、「足立市場の整備拡張をもって主目的とするとともに、足立市場の発展及び公共の福祉増進に寄与すること」を目的に、「足立市場整備拡張期成同盟」が誕生し、東京都へ請願書を提出した。その中で、「緊急を要するもの」として、場内舗装、引込線工事、卸売場・仲買人売場改築、などが上げられていた。無舗装のため雨続きにはどろんこ市場となり、天気の日には品物がほこりにまみれていた。また近県からの積荷が入りきらないため、周囲にいつの間にか私設の市場ができ、月に一二〇〇万円余りの取引をしている実情だった。
当時の足立市場は、一日に野菜一万貫(約三八トン)・五〇〇万円、魚類二万五〇〇〇貫(約九四トン)・三五〇万円を扱う城北唯一の総合市場であり、年間二四億円の売り上げがあった。近県の農家が荷を運び入れ城北百万・近郊二〇万人の人間の食糧を支えていた。
一九五三(昭和二八)年から二〇年余りに渡り、設備の整備や周辺の用地買収が進み、現在の規模になった。東京都は、六一(昭和三八)年七月策定した市場整備八か年計画により足立市場の過密状態を緩和するために北部流通業務団地を建設する計画が決定し、昭和四四年、同団地内に青果部の新市場を建設することとなった。七九(昭和五四)年九月一七日、北足立市場(足立区入谷六丁目三番一号)が開設し、足立市場の青果部は全面移転した。現在、足立市場は魚類の専用市場となっている。