地口行灯とは江戸時代に発生した、ダジャレを描いた行灯のことである。
おまつりの時奉納され、神社の参道や鳥居などに飾られる。また自宅の敷地内に稲荷を勧請して祀った「屋敷稲荷」にも地口行灯は飾られることがある。
千住にはその地口行灯を描く作者がいて、今も製作を続けている。江戸の名残をとどめる風俗である。
地口行灯については郷土博物館が行なった収蔵品展のリーフレット『おもしろ絵詞(えことば)・地口行灯』(会期平成七年三月二五日から五月二八日まで)と、岡村昌夫「江戸の残照-地口行灯の世界-」『人形玩具研究-かたち・あそび-』第一二号、日本人形玩具学会刊、二〇〇一年発行が詳しい。
「地口」とは「語呂合わせ」や「ダジャレ」の意味である。ダジャレを絵とともに書き、行灯にしたのが「地口行灯」である。
江戸では「地口」と呼んだが、京坂では「口合」と呼んだ。地口行灯は江戸時代の後期に生まれたといわれる。
ダジャレなのでその元になる元句があり、それを連想させながらうまくひねるのが醍醐味といえる。
江戸の地口と京阪の口合の、両者の傾向は必ずしも明確ではないが、たとえば京阪は「後の後悔 先にたたず」を「あとの号外 役に立たず」と読みかえる、まったく別の意味を持つ句に転換させる傾向があり、「鯉の滝登り」を「子犬の太刀のぼり」と読みかえるようなナンセンスは江戸の特徴といわれている。
地口の題材となる「元句」は、ことわざ、流行の芝居のせりふ、歌舞伎の登場人物などから取材する。地口は一時期、大変流行したとみえて、地口のネタ本や地口集なども出版された。
昨今では地口の熱狂は下火になったものの、新作の地口もあり、たとえば「建て売り住宅」を「立瓜住宅」に、「夏季手当て」を「柿手当」と読み替えたものなどがある。清瀬市で昭和一〇年代に使用された地口行灯には、村の中での世間話を題材に取り上げたものもあるそうだ。
地口を読むのもひねるのも、俳句や川柳と同じ、江戸時代から続く庶民の文芸活動といえるのである。
現在東京都内で製作されている地口絵は、「江戸系」と「多摩系」とに大別される。「江戸系」の作者には千住四丁目の吉田絵馬屋がいる。「多摩系」は作品には、地口だけでなく川柳が多く含まれるという特徴がある。
吉田絵馬屋では、地口を描いた「地口絵紙」を手描きで作ってきた。地口絵紙は際物問屋や祭具店、荒物屋などで販売されるが、その流通や他の使用方法については、まだ多くがわかっていない。
地口行灯は、どのように使用されたのだろうか。村の鎮守の稲荷神社では、お祭りの日に地口行灯が奉納され、参道や鳥居などに飾られる。行灯の側面に奉納者の名前や「商売繁盛」などの祈願を書く。
区内でも、佐野柳稲荷神社(佐野1-14-3)では二の午の祭日には、かつて村中の家々の入り口に地口行灯を飾る習慣があった。今でも小右衛門稲荷神社、八幡稲荷神社、仲町氷川神社の祭礼には、地口行灯が奉納される。
大きな神社に奉納するという形式がある一方、自宅の行事でも、地口行灯を飾る習慣もあった。
自宅の敷地内に稲荷を勧請して祀った社を、屋敷稲荷と呼ぶ。東京周辺では屋敷神として稲荷を祀る家がたくさんあった。二月最初の午の日である「初午」の日は稲荷のおまつりの日で、お供え物をあげ幟を立てて、それとともに地口行灯を飾る習慣があった。千住地区にもこうした屋敷稲荷は多かった。
昭和初期の屋敷稲荷の初午の様子を、山田彰司さんが話してくれた。山田さんは大正八年生まれで、昔から千住五丁目にお住まいである。この話は小学校一、二年の頃、一〇歳前後のことだという。
山田さんの家では、初午には地口行灯をかかげ火を入れて、門を解放したものだった。
近隣の子どもたちがそれぞれにお面をかぶり太鼓叩いて、はやし言葉でにぎやかにはやしながら家々を回った。子どもが来ると家々では赤飯や飴などを配った。
また千住緑町にお住まいだった大野順子さんの話では、高校生だった昭和三〇年代まで、初午に屋敷稲荷のおまつりをしていた。赤飯やその他ごちそうを作って、集まる子どもたちにふるまった。ただ地口行灯を飾ったかどうかは、よく憶えていない。
この懐かしい家々の行事が、近頃かたちを変えて行なわれた。
二〇〇三年九月一四、一五日の千住の地元のまつりに合わせて、地口行灯が町の通りに飾られた。
千住一丁目から五丁目までの五町会の連合会青年部の呼びかけで、家や店の門口に千住の地口行灯が提がった。
千住の坂本石材店もこのプロジェクトのメンバーで、区役所文化課と郷土博物館の職員がお宅に伺って話を聞いた。坂本さんは、千住は歴史的な街なのに、そのことがよく身近に見えなくなっている、ここがどんな街だったのかを再確認し、雰囲気を残したい、と話していた。
青年部では、地口行灯を飾るという習慣が地元にもあって、なおかつ地口絵の作者も地元にいることから、地域ぐるみで行灯を飾るプロジェクトを思い立ったという。
準備も青年部が主体となった。地元の家具職人に行灯の木枠を頼み、白熱電球とコードを調達した。地口絵は吉田絵馬屋の吉田晁子さんに注文し、できあがった木枠に地口絵を張り、ラミネート加工して電球をつけた。
価格は一個二八〇〇円であった。評判が広まって注文が相次ぎ、さらに二〇〇個追加して作った。
九月一四日に宵宮には、板垣通りに七〇個の地口行灯が並んだ。祭りが終わってからも提げたままにしている店を、今でも時折見ることができる。