足立の凧祭りと千住の凧

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 戦前、千住で作られ、売られていた凧については、『天(あま)翔ける強者(つわもの)たち―武者絵凧の世界―』(郷土博物館、一九八八年)によって明らかにされている(別掲記事参照)。

 ここで述べられていることのほか、橋本禎造氏によると、凧骨用の竹をあつかう専門店が東京に二軒、渋谷と千住にあった。千住の店は、桜木町にあった〝お化け煙突〟の下にいた山田という店で、ごく値段の安い凧専門の骨をあつかっていたという。

 また伊藤晴雨は『千住十題』のなかに「千住の名物」という絵を描いている(別掲図)。「千住骨の凧 其他」と説明がつき、絵の内容は、凧や起こした火をろうそくなどに移す時に用いる火口(ほくち)や、鮒のすずめ焼が描かれている。


千住の名物 伊藤晴雨画
(神野彦二さん所蔵)

 「千住と凧」には凧製作者の「小塚」という人物が登場する。凧の研究家であった斎藤忠夫が、凧製造業者・凧販売者に聞き書き調査している(斎藤忠夫『凧の民俗誌―種類・由来・慣習―』未来社刊、一九八六年発行)。その中に「小塚」という苗字の人物は、「小塚菊太郎」と「小塚直次郎」の二人の人物がいたようだ。

 小塚菊太郎は、旗本武士を祖先に持ち、明治時代に凧屋に転業した者の三代目にあたるという。練馬区石神井に在住していたという。一方、小塚直次郎は菊太郎と同じく凧製造業で、牛込天神に住んでい屋ではないかもしれないが、何か関係があるだろうか。斎藤の調査でもやはり「富士屋」が千住にあったことをつきとめていて、千住では他に「千住大橋際の絵馬屋」が挙っている。

 凧揚げも盛んに行なわれた。一九三二(昭和七)年だという。二人とも住所が違うので「千住骨の凧」やではないかもしれないが、何か関係があるだろうか。斎藤の調査でもやはり「富士屋」が千住にあったことをつきとめていて、千住では他に「千住大橋際の絵馬屋」があがっている。

 凧揚げも盛んに行われた。一九三二(昭和七)年四月に梅田五丁目の小泉亮吉さんが撮影したという坪数にして、五・八三坪で約畳一二畳の大凧「梅田大凧」の写真が『天翔る強者たち―武者絵凧の世界―』(前掲)に紹介されている。

 千住では、戦前は、現在千住公園のある緑町一帯の広々したところが凧揚げの場所としてにぎわった。その後は都市化の進展につれて空き地も少なくなり凧揚げも衰退していった。

 しかし、一九六五(昭和四〇)年に荒川河川敷の千住新橋グランドで区教育委員が主催、少年団体連絡協議会、青少年委員会が共催となって凧揚げ大会が開かれ、一九七九(昭和五四)年一月二一日に凧揚げ大会が行われた(『足立史談』第一三二号)。

 この大会がいつ頃まで続いていたのかは不明だが、暫く途絶えていたようである。

 再度足立の凧揚げを、青少年育成の一環として、虹の広場に凧の花を咲かせ、親子の触れ合いをとの願いから、「第一回足立凧まつり」が開催された。今回は、「足立凧まつり実行委員会」が組織され、足立区教育委員会、日本凧の会足立支部共催、協賛足立フォーラム、後援国土交通省関東地方整備局荒川下流工事事務所、足立区小学校PTA連合会、足立区少年団体連合協議会で実施されている。


第三回足立凧まつり(2002年9月荒川河川敷)(中田貢弘さん提供)

 第一回足立凧まつりは、二〇〇〇(平成一二)年九月八日に千住の荒川河川敷の「虹の広場」で行なわれ、区内の小中学生手作りの二六〇〇枚の和凧を揚げるが盛大に開催された。小学校三年生以上の児童が夏休みの宿題として親子で作り上げた凧が揚がった。

 二〇〇一年第二回の様子をみると、児童二五〇〇名、学校PTA関係者二〇〇〇名の計四五〇〇名の参加である。それと群馬県宮城村の宮城小の参加や朝鮮学校の参加もあり、子供達の国際交流の場に凧揚げも盛んに行なわれた(凧まつり実行委員会報告)。


千住と凧

 駄菓子屋や荒物屋、提灯屋などは、問屋から仕入れた凧を店先で売っていましたが、第二次世界大戦前の千住三丁目(現在の白亜ビルの場所)にあった〝ふじや〟(〝たこふじ〟とも呼ばれました)という凧屋では、自家製の凧を売っていました。〝ふじや〟は東京で有名な凧屋だったらしく、最後の江戸凧絵師の一人として知られる橋本禎造(ていぞう)氏は、『江戸凧三代』の中の、江戸の凧屋を紹介した一節で、次のように語っています。

 「それから千住の川向うへいって、富士屋。これは親子二代、三代くらいの凧屋です。北千住の駅の北口を出て、はじめての交差点の通り、昔の千住街道、長野へ行くあの街道の中程にあったんです。それが千住の富士屋って有名な凧屋です。(中略)千住の駅から出て、右側の四、五軒目にありました。ここまでが本職の凧屋です。」

 現在〝ふじや〟は千住三丁目にはありませんが、近くに住んでいた人たちの中には、ここで凧を買ってあげた経験を持つ人もいます。このような人々の記憶によると、〝ふじや〟は一軒の建物を二つの店舗に分け、一方で凧屋を、一方では甘酒屋を営んでいました(もとが一軒だったため便所は一つだけだったそうです)。凧は正月前後に売り、他の季節はもっぱら甘酒屋を開いていました。売っていた凧は、とんび凧、やっこ凧、飛行機凧、六角凧、四角凧などで、四角凧には大小いろいろあって、張り合わせる紙の枚数でその大きさを表していました。〝ふじや〟の近くには映画館があり、映画を見た帰りには、この甘酒屋へよく立ち寄ったものでした。

 〝ふじや〟の最後の主人は増田留吉(ますだとめきち)という人だったそうですが、昭和の初めには小塚(こづか)という人が凧をつくっていたともいいます。もっとも、留吉が武者絵に色をつけているところを、子供のころに見たという人もいて、残念ながら、このあたりの事情ははっきりしません。

 〝ふじや〟のような凧屋とはちがって、問屋から仕入れた凧を、正月ごろに売る店は、千住にも数多くありました。たとえば、千住二丁目にある荒物屋では、昭和10年ごろまで、東浅草二丁目にあった〝凧清〟という問屋から凧を仕入れて売っていました(〝凧清〟は幕末からの老舗でした)。そして、正月に凧が売れる残ると、初午に王子稲荷で開かれる凧市に出しに行ったものでした。また、千住四丁目の絵馬屋でも、季節の品物をあつかう際物問屋として、今井龍谷などの凧絵師が描いた凧を売っていました。

 ところで、異色の画家伊藤晴雨(いとうせいう)(明治一三年~昭和三六年)の作品に『千住十題』があり、その中に「千住の名物」という絵に〝千住骨(せんじゅほね)の凧〟が描かれています。晴雨は幕末から明治にわたる江戸風俗の考証家としても知られ、彼が昭和4年に著した『江戸と東京・風俗野史』の中の「凧のはなし」という節には、次のような記述があります。

 「『千住骨』という凧は市外千住町から作る特別な骨の太い凧で、これは現在でも北千住町に立派に営業している。」

 〝千住骨〟とは、おそらく強風用の凧のことでしょう。大正5年に編集された『南足立郡誌』の「千住町主要生産物及其金額」というリストには、凧の名前もみられます。その生産高は、当時の金額で二〇〇円とあり、他の生産物に比べて少ないのですが、それでも凧が千住の名物の一つであったことがわかります。

※ 「千住と凧」。『天翔る強者たち-武者絵凧の世界-』足立区立郷土博物館紀要第六号(郷土博物館、一九八八年)より