隅田川沿いの土地(現在の緑町から桜木町辺り)は、一面の萱野の原であった。日光道中が整備されたころ、この辺りは一丁目から五丁目の入会地(いりあいち)になっていた。
文政期の「日光道中千住宿村差出明細帳」には以下の通り記されている。
一八ヶ町地方年寄役料之義壱町目者年寄抱萱野弐口配分の外壱人ニ付所持屋敷半軒分地役出銭相除並高弐石五斗ツゝ出銭役引仕来弐町目者右同断萱野之外所持屋敷之分地役相除壱ヶ年壱人ニ付金三分ツゝ惣百姓給料割合相渡来三丁目者右同断萱野之外所持屋敷壱軒分地役相除高五石ツゝ出銭役引仕来四丁目五丁目之義者右萱野配分之外屋敷壱軒分地役相除高引無御座掃部宿者所持屋敷之分地役相除高五石小間五間ツゝ出銭引役仕来申候
〈解読〉
千住八ヶ町村方の年寄役の役料は、一丁目は年寄抱萱野二口分配分のほか、一人につき所持屋敷半軒分地子銭と高二石五斗分の出銭を免除、二丁目は萱野は一丁目同様で、ほか所持屋敷の地子銭を免除、一か年に一人につき金三分の給料を渡す、三丁目は萱野は一丁目同様で所持屋敷一軒分地子銭と高五石分の出銭を免除、四・五丁目は萱野は一丁目同様で、屋敷一軒分地役免除、掃部宿は所持屋敷の地子銭と高五石、小間五間の出銭をぞれぞれ免除であった。
このように千住各町の年寄役には、萱野の権益が含まれていた。この文書から牧の野の萱は、千住宿の役職料として使われていたことが分かる。当時、萱は屋根材、飼料、炭俵,日よけなど、日常生活に欠かせないものであった。
また牧の野一帯は、江戸時代に隅田川が増水すると江戸市中が水害にならないように、その洪水を引き受けた隅田川の河川敷であった。明治の初めにはこの地の一部に皮革工場や製靴工場が建設されたが、その他の地は依然としておもに葦・萱などが生い茂る河原であった。当時土手には桜並木があり、その南側は広々とした原っぱで、池で遊んだり、凧揚げがなされ、また広い平地を活かしてその一角には輪士会競技場も設置された。