我が祖因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕へて甲府に住す。長子は蔵人と曰ふ。大永六年、去りて武州安達郡に住す。又転じて陸羽街道元宿に住す。蔵人に子有り、孫左衛門と曰ふ。後に左衛門尉信義と改む。天正元年、信義此の地を墾き、大いに良田を得たり。二年八月、乃ち地を邑の東南に相して八幡神祠を建つ。九月、其の東北に卜して稲荷神祠を建つ。信義、材は武にして善く戦ひ、徳川氏に仕へて屡(しばしば)功有り。天正慶長の際、功状を賜はること三たびなり。今尚ほ家に伝ふ。初め我が族人の此の邑に住せし者は二十四家なり。元禄二年、二十家今の千住第四街に移りて、留まる者僅か四家なり。後に十四家と為り、皆世農を業とす。天明七年、飢饉に遭ふも故地を固守して去らず。明治四十年、同四十三年洪水有り、家屋を浸すこと十余日、田圃荒廃に帰するも尚ほ去らず。大正元年八月、内務省、荒川改修の工を起す。我が邑も亦、改修区域に属す。乃ち十四家故地を挙げて之を公に致して、以て四散せり。嗚呼、我が族、此に住みしより四百余年なり。余は貞宗の遠裔なり。今故地を去るに臨みて愛慕の情転た禁ずること能はず。乃ち碑を八幡祠前に建て、其の梗概(こうがい)を記して以て不朽に伝へんと爾云ふ。
大正五歳次丙辰三月
貞宗遠孫鈴木与吉建之
(原漢文『足立風土記資料金石文Ⅰ・記念碑等』)