千住柳町は、かつて千住遊廓のあったところである。一六二五(寛永二)年千住は日光街道の初駅と定められ、江戸四宿として栄えた。旅籠屋には平旅籠と食売旅籠(めしもりはたご)があった。食売旅籠は、飯盛旅籠ともいい、食売女(めしもりおんな)を抱えていた。寛永年間から一軒につき二人あて置く事を許されていたが、次第にその規則は守られなくなりその数を増していった。一七一八(享保三)年には、取締令が布告され、一七六四(明和元)年千住宿の給仕女は、一五〇人まで置くことを許可された。一八三一(天保二)年には旅籠屋への芸子立ち入りが許可され、千住は遊里的風潮がさらに増し、旅人、船頭、そしてヤッチャバで現金を手にした農民などで賑わった。
一九〇〇(明治三三)年一〇月、東京府によって「貸座敷営業区域の指定」がなされた。その理由は、風紀取締と花柳病予防の見地からであった。旧千住宿の貸し座敷を町の中心部から隔離して、民衆の目から遠ざけようとしたのである。一九一九(大正八)年、それまで千住四丁目飛地で田畑や萱場であった所(現在の千住柳町)に遊廓の移転がなされた。
柳町移転は、千住北組の業者と南組(小塚原)の業者との激しい対立があってなかなか決まらなかった。互いに自分たちの飛地を移転先に主張して譲らず、解決の兆しはみられなかった。その内、北組の有志の間で、当時農道であった竜田道を新道にしようという提案があり、一九一〇(明治四三)年、日光街道の四丁目角から「竜田道」に至る「四丁目新道」が建設された。これが現在の「いろは通り」であり、柳町移転の契機となった。東京府は新遊廓地を千住四丁目飛地と定め移転の実施期限を一九一九(大正八)年一二月末日と定めた。一九一八年土地区画整理組合が地主より土地を買収し、翌年九軒の移築と二軒の新築がなされ、千住柳町遊廓が誕生した。敷地の割り当ては、平均して一〇〇坪であった。
新開地当時、千住北組から移築されたもの七軒、千住南組(小塚原)から移築されたもの二軒、新たに営業をするもの二軒、計一一軒であった。一九二一(大正一〇)年には一六軒、翌年には四一軒にまで増加しさらに関東大震災後は五六軒もの楼が立ち並んでいた。
一九五七(昭和三二)年、売春禁止法施行により千住遊廓は廃業となった。空襲による類焼を免れた遊廓跡は、現在も遊郭地内の街区は他町から独立し、接点をずらしたT字路や格子状の通り、道にせり出したベランダなどに、その面影を残している。