千住愛育院

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 愛育院は、一九一八(大正七)年東京府南足立郡内で最初に保育事業が営まれた所(現・千住保育園)である。創設者は荻野鐵蔵さん(一九二九〈昭和四〉年一月二四日没)、新潟県出身で一九〇七(明治四〇)年に浅草から千住に移り住んだ。浅草では洋服の布地屋になり、ミシンを一五、六台持っていた。またソロバン教室も開いていた。第一次世界大戦でかなりの利益を収め、今の千住桜木町一帯の土地を手に入れるまでになった。

 荻野氏は仏教を深く信奉し、能登の総持寺によく参詣した。ある参詣の折に発心し、財団法人千住愛育院の設立を決意した。一九一八(大正七)年認可申請書を内務大臣宛へ提出した。なお、当時の東京府下にあった託児所は僅かに十数か所で、すべて民間のもので公立のものはなかった。

 開院式で荻野さんは次の様に述べている。

 「私の成し得ました資産は決して私一人の力のみによってではなく、かく成さしめた仏の思し召しを果たすには、全財産は私の物にして私一人のものではなく、世上のために之を投じて慈愛の仕事に貢献しようと考えたのであります。」

 千住保育園の敷地北西の角に、この荻野氏を讃えた碑が立っている。

 愛育院は七歳までの男女幼児を依託する。定員は二〇名、依託の時間は午前六時から午後六時まで、依託者は日毎幼児の間食料金二銭を納める。法定伝染病の他にうつる病気や自宅療養が必要だと認めた幼児については依託をやめたり、断る。毎月一日一五日、及び盆、正月の一定の日を休日とするなどが、九か条にわたる規則に記されている。

 一九二九(昭和四)年に荻野さんが他界し、財団理事長は堀内亮一さん(堀内病院院長)が就任した。戦争が熾烈になるにつれ、戦時託児所となり、罹災者の臨時収容所、警防団の詰所、町会事務所などに転用され、一九四五(昭和二〇)年二月、事業を閉鎖した。そして、戦争終結後の混乱から、財団は再建に尽力したものの再開はできなかった。

 足立区は千住愛育院を借り受けて保育園を開設、一九四八(昭和二三)年九月一日付で千住保育園として都知事の認可を受けた。戦後の区立保育園第一号である。昭和二四年、制度の変更によって都に移管され都立となった。しかし、土地が財団のものであるため、改築ができなかった。そこで区は財団に財産の寄付を懇請し、財団も一九五〇(昭和二五)年一一月解散を決議し、財産を区に寄付した。(『足立区保育の歴史』)


千住愛育院平面図
(『足立の保育史』より)


千住愛育院(足立史談会提供)


千住愛育院記念碑

財団法人千住愛育院は、大正六年十二月二十八日に南足立郡千住町五丁目百十一番地在住、故荻野鉄蔵氏の発願に起縁して創立され、財団の基本財産はこれすべて氏の喜捨によるものであった。

 爾来財団は仏教思想を基盤として青少年の補修教育を勤労階級のため日夜是事業に精進し社会の福祉に多大の寄與をなしてきたのであるが太平洋戦争に際會しその事業を休止するに至った。

 昭和二十三年九月に足立区千住保育園は財団の土地建物の貸与を受けて発足し、その後制度の改正に伴い保育園は東京都に移管されたのであるが、偶々同二十四年の末、保育園所の新築計画が確定ふたたび財団は、足立区の懇願に快く容諾せられ、同二十五年十一月七日財団を解散し保育園新築敷地として、宅地三百二十六坪餘その他既存建物財産一切を足立区に寄附せられたのである。

 茲に財団の善意を敍してこの土地の由来を後世に傳えんと欲する次第である。

 昭和二十六年三月

    足立区長  大山雅二  謹す