この病院は、一八九七(明治三〇)年千住町他九か村が組合を組織して資金を出し合い、行政の中心地だった千住の町に郡立病院として設立した。翌一八九八(明治三一)年四月の伝染病予防法発布に先立って、設立した病院である。病院は、伝染病の蔓延を防ぐための避病院だったので千住といっても宿場で栄えた町並みからは、かなり離れた田んぼの中(当時の千住町大字四丁目一〇九六~一一〇〇・現千住大川町三五番地)に建てられた。この郡病院は、敷地一六〇〇余坪(五二九六m2)、病舎は一九二三(大正一二)年三月の建築で、総建坪二五二坪、木造瓦葺平屋で病室二三、他に医局、消毒室、更衣室、屍室、賄室及び事務室の当時にあっては最新式構造で、府下有数の公立病院であった。当時医員二名、助手一名、事務員一名、看護婦三名を常備し、郡内の伝染病予防と、郡民の保健に貢献するところが多かった。
「南足立郡病院事務取扱規定」によると
第一條 郡内ニオケル町村役場ヨリ入院ヲ證スヘキ書類ヲ付シ送院シタル患者ニアラサレハ入院ヲユルサヽルモノトス
第二條 送院患者アリタルトキハ収容に先立チ一應診察シ傳染病豫防法ニ稱スル伝染病ニアラズト認ムルトキハ入院ヲ拒絶スヘキモノトス
入院は、なかなか厳しいものがあったようである。
かつて日光街道旧道の途中に茶釜橋という交差点があった。現在は荒川の中だが、ここで梅田へ向けて斜めに進む日光街道と、綾瀬方面から来た伊藤谷道が交差し、川田道と名を変えてさらに西に進み、現在の大川町の氷川神社の境内を横切り、千住公園の北側、区立第三中学校の北側を経て千住元町のバス通りの土手に出ていた。江戸時代から綾瀬と元宿・本木を東西に結び、茶釜橋から千住宿、草加などに通じる重要な道だった。この道沿い、今の千住公園の所に病院が建てられたのである。当時は浅井戸や汲み取り便所などで衛生環境が良くないため、赤痢や疫痢が多く、これらの病に罹(かか)る者が出ると、近所の人まで震えあがった。
一九二三(大正一二)年、郡制廃止により千住町ほか九村の組合病院となった。本院は予備病院として管理され、平素は閉鎖していた。病舎は同年に改築され、総建て坪八三四m2木造瓦葺き平屋で、病室数二三、他に医局、消毒室、更衣室、屍室、賄室、事務室があり最新式の構造をした府下有数の公立病院であった。
一九二三(大正一二)年の関東大震災以後、復興計画ですぐには家も建てられなかったため、市中から罹災者が流れ住み、千住の町は膨張した。そのため家作ブームが起き、資産家の商人や地主は競って長屋を建てた。今まで田んぼだった町外れの耕地は、次々と埋め立てられ、新しい家並が出現していった。やがて現在の大川町にも町営住宅が建てられるなど、移住してきた住民がますます増えた。そして住民の間から、公園開設に対する要望が高まり、その流れのなかで、郡立から市立となったこの病院は、一九三六(昭和一一)年、やむなく現在の都立駒込病院の地に移転した。その跡地は、住民の要望を取り入れ東京市立千住公園になった。これが足立区内の公園第二号(三七年一月二八日開園))である。その旨を伝える記念碑だけが残っていたが、一九九〇(平成二)年に当公園が改造された時にはなくなっていた。かつて病院を立ち退かせたものの、区民は今北千住駅前から都バス「都立駒込病院前」行きに乗り、通院している。