北魚市場(現・千住桜木町二丁目西新井橋南詰)

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 現在は広々とした公園と高層マンションが建っているこの地は、かつて威勢のいい魚市場があった所である。東京北魚市場は、西新井橋南詰の隅田川河川敷に造られた市場だった。その前身は震災前にさかのぼる。

 一九二三(大正一二)年三月、中央卸売市場法が交付されたが、同年九月、関東大震災が発生し、日本橋にあった魚市場は焼失した。急遽芝浦に仮設市場を開場し移転した。しかし、この芝浦に搬送された魚類は、南千住の隅田川駅に集積されたものの、ここから芝浦への輸送手段は復旧の遅れから不足していたため、ほとんどの品物が腐り、廃棄される事態だった。一方、海上輸送は九月二日よりほぼ回復していた。流通能力の不足は魚市場の致命的欠陥であり、有志が資金を出し合って、新しい流通市場として隅田川駅構内の隣接地に一万坪を借り入れ、有限会社千住鮮魚販売所として「汐入魚市場」が開場した。運搬面で地の利があったため、汐入魚市場は発展が期待されたが、一九二五(大正一四)年二月に又も移転を余儀なくされた。中央卸売市場法の「市場は一地方一ヶ所たるべし」という方針にもとづき、築地の東京中央卸売市場の商圏内にあるこの市場は、移転せざるをえなかったのである。

 西新井の候補地は「汐入」から隅田川を五kmほどさかのぼった対岸にあり、南足立郡本木村大字堤外耕地三一八二番地(現、千住桜木町二丁目・西新井橋南詰)だった。この地は魚市場として、

①東京府下であり、東京市に隣接していること。

②二〇〇〇坪以上の敷地があり、将来隣接地に拡張できること。

③舟運を含めて交通の便に恵まれていること。

 以上の立地条件を満たしていた。借地面積は約八〇〇〇坪。石炭ガラを敷いて整地し周囲に土を盛り上げて土手を築き、バラック建ての売り場、事務所などを整え、東京府より市場開設の許可を得て「東京北魚市場」となった。

 この市場の規模は、敷地七六〇七坪、建坪一〇四六坪、四棟の鮮魚売場、塩干売場一棟、周辺に附属商売場が取り巻くように位置し、荒川べりにドックが作られていた。問屋兼仲買業者は、初め五〇名弱であったが、翌年には八〇名、仲買専業者八名になっていた。

 北魚市場の創設期は、金融恐慌に端を発した不況時代のどん底で、苦難の七年を耐えていた。しかし、一九三二(昭和七)年八月に起きた築地魚市場不買争議は、北魚市場に買い出し人が殺到し、大きな利益をもたらした。またこれをきっかけとして生産者荷主に北魚市場を認めさせることにもなった。さらに、一九三四(昭和九)年三月七日に落成開通した尾竹橋は、荒川によって市内と隔てられていた足立、千住方面が、根岸、下谷、浅草、巣鴨、駒込などと通じることとなった。この日から北魚市場は、城北地区の買出人にとって極めて便利な市場に一変した。

 一九三二(昭和七)年一〇月、東京市は周辺五郡八二町村を合併し、二〇区を新設した。この際北魚市場のある西新井は東京市に編入され、中央卸売市場法の適用区域に入ってしまった。東京市はこの行政区域拡大に伴って、旧南足立郡と旧南葛飾郡方面を対象に中央卸売市場の分場建設の計画を立て、ここに魚類部として北魚市場を収用することが内定していた。

 一九四〇(昭和一五)年、北魚市場は取扱量東洋第三位の実績を誇っていた。しかし、移転も止むなしとし、着々と準備をしていた。

 戦雲厳しい一九四五(昭和二〇)年二月、一部未完成のままの足立市場に、「北魚市場」は移転を終えた。魚類部だけが入場し、その後の歩みは「東京卸売市場足立分場」の項に譲る。


北魚市場(『写真に刻み込まれた足立区50年の軌跡』より)


発足当時の北魚市場平面図(『千住魚河岸五十年史』より