一九二六(大正一五)年、火力発電所として建設された。そして、一九六三(昭和三八)年解体されるまで三八年間、「お化け煙突」とよばれ、下町のシンボルとして親しまれていた。
一八八三(明治一六)年、東京電燈株式会社(現在の東京電力(株))が国の工業化の進展と民家への電力供給のため設立され、次いで小規模な発電会社を統合し発展していった。しかし、電力の需要は日増しに増大し、建設が追いつかないほどであった。
一九二三(大正一二)年の関東大震災では、変電所、送電線に多大の被害を被った。電力供給のため新しい火力発電所の建設が検討された。千住に決まるまで市川、亀有、川口、川崎なども候補地だった。そのうち、冷却水、石炭運搬、地盤、環境などを考慮し、南足立郡千住四丁目堤外西耕地(現千住桜木町一丁目一二番地)が選定された。既に荒川放水路の開削が最終段階に達し、洪水の危険がなく、石炭の船による輸送と陸揚げの便の良さ、そして広大な敷地を得られること、従業員の通勤の便が良いことなど好条件であった。アメリカから機械を買い入れ石川島製作所が工事に当たった。第一期工事は帝都復興のため六か月で建設された。ここの発電機は発電しない時はタービンと分離し、系統安定用の調相機(需要によって調節する)としても利用できた。七万五千キロワットの発電量は、当時としては、日本最大の火力発電所であった。
お化け煙突とよばれた理由は二つある。一つは、見る位置によって一本、二本、三本、四本とかわるからである。四本の煙突の位置は、それぞれ菱形の頂点に位置し、菱形の対角線は一方が六二・二m、もう一方が一〇・五mだった。つまり極端に押しつぶされた菱形に配置されていた。そのため見る位置によって様々の本数に見えた。もう一つの理由は、煙突から煙りが出たり出なかったりするからである。「お化け煙突」は千住の住民から長い間親しまれ、戦後間もない一九四九(昭和二四)年、五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」にも登場し、上原謙・田中絹代・高峰秀子など当時の大スターが競演し、一躍有名になり千住のシンボル的名所となった。また後に、早乙女勝元原作のアニメーション映画、「おばけ煙突のうた」が「こぶしプロダクション」によって制作されている。周囲に高い建物等がなく、高さ八三mの煙突がいかに巨大であったのかが想像できる。しかし、この最新型発電所も、火力を石炭から重油を用いる流れのなか重油発電の施設を持たないため効率が悪く、コスト高となり取り壊された。約六万m2の敷地は、変電所(六六〇〇m2)を残し、グラウンド、テニスコートなどの厚生施設となった。煙突の一番太い部分、直径四.五mの半円は、足下に隣接する足立区立元宿小学校校長、PTA会長の要請によって、校庭の片隅に滑り台として設置されている。この内側には関係者の尽力を記した「四本煙突記念」のプレート(昭和四〇<一九六五>年一月)がある。このすべり台は、児童の歓声に包まれる一方、両親や祖父母、地域の人々にとっては、昔を偲ぶ大切な記念物となっている。