一九〇七(明治四〇)年、それまであった皮革関連会社四社(株式会社桜組、合名会社大倉組皮革製造所、東京製皮合資会社、旧合資会社今宮製革所)が合流し、本店及び東京工場として緑町(当時の東京府南足立郡千住町大字千住中組一一九〇番地)に創立した。現在、「株式会社ニッピ」と社名が掲げられている正門の門柱一対は、創業時の門柱であり、富国強兵をめざして工業の近代化に邁進(まいしん)した往時を伝える記念碑の一つである。
これより先、一九〇二(明治三五)年一月、姉妹会社ともいうべき、日本製靴株式会社が隣接する千住橋戸町で創業を始めている。当時の緑町一帯は、これらの工場以外、一面の葦が生い茂る沼沢地だった。移転に際し、千住の町民は大反対をした。しかし、移転後の千住町の財政は、この二工場によってほとんど賄われるほど寄与し、さらに日露戦争を通じて増加した従業員が付近に居住して町の繁栄を助けることとなり、次第に地域に受け入れられるようになった。
この東京工場の地は、当時、地理的に東京北部の一辺地にすぎなかったが、隅田川に面し水運の便に富み、特に原料入荷に多大の利があった。その後、次第に入り江を埋め、隅田川を埋め、今日の敷地に至った。
創業以来、常に業界トップの企業として、第一次、第二次の各世界大戦、朝鮮戦争の軍需への対応、そして景気の波にもまれながら経営規模の拡大、経営の多角化を推し進めてきた。
一九七四(昭和四九)年、社名変更により「株式会社ニッピ」となった。創立以来の皮革製造販売が低迷しているのに対し、途中から営業品目に加えられたゼラチン、化成品、ケーシングといった新事業が収益を上げ、売り上げにおいても年々シェアを拡大しつつあった。さらに、当時準備中の新事業の中にはペプタイド、食用品・医薬用コラーゲンなどがあり、この分野の製品については皮革という言葉から連想されるイメージがふさわしくないと判断された。産業界、特に大手企業の間ではすでに数年前より、製品や業務を特定しない社名、世間で通用している「通称」への変更が行われていた。「ニッピ」は、業界や地元で昔から通っていた通称だった。