継続出願ニ係ル渡船営業之義ハ対岸南足立郡千住町大字千住一丁目ニ至ル通路ニシテ、従来付近各町村ハ勿論、市内本郷区根津谷中方面ヨリ南足立郡千住町若クハ奥州街道ニ連絡スル一廉之交通機関ト相成候ノミナラズ、近時王子電車又ハ山手院線電車等ノ利便アルヲ以一層交通頻繁を加へ候実況ニ付、至急御許可相成度
これは一九一八(大正七)年一一月、千住町大字千住一丁目七〇五番地と対岸の尾久村大字久秣場三六〇一番地先とを結ぶ、通称「お竹の渡し」(「御茶屋の渡し」とも言う)の営業継続願が申請された際、尾久村村長から東京府あてに出された意見書に書かれたものである。新開地として人口が増え、生産活動が活発になるに連れて、工場労働者が荒川を渡る手段として、渡しが重要性を増していたことがうかがえる。「お竹の渡し」は、明治中頃から営業を始めたと思われる。
千寿桜小学校の北に、桜木町、竜田町、宮元町の境界点となる七叉路の交差点がある。この一番幅の狭い西に向かう道を進むと、隅田川の堤防につきあたる。ここがお竹の渡しがあった所である。途中の左側に「お竹の渡し跡」の碑が立っている。
このお竹の渡しで、最後の船頭をしていた恩田亀次郎さん(大正元年生まれ)の家は、今も、その渡し場跡にある。亀次郎さんと妹の美津さんの話によると、恩田家は、祖父の代に木曽根からこの地に移り住んだ。父の喜三郎さん(明治一八年生まれ)は、隅田川で鰻漁をする傍ら、渡しの船頭をしていた。母のお竹さんは、明治二五年生まれ、八人の子を育てながら渡し場の客の接待をしていた。亀次郎さんは長男、美津さんは三女である。藤棚の下に縁台を置いて、客が船を待つ間にお茶を出したり、駄菓子を売ったりしていた。喜三郎さんの母で亀次郎さんの祖母も、またお竹さんといった。更に桜土手からこの渡し場への下り際にも「お竹茶屋」があって、そこにもお竹さんという人がいた。「お竹の渡し」はどちらの「お竹さん」の名か分からないが、いずれにしても女性の存在が名の由来のようである。
渡し賃は、片道一人二銭、自転車は四銭だった。夏でも冬でも、日の出から日没まで渡した。終日働いて、最高の日は一日に六円の実入りがあったという。向こう岸から「お~い」と呼ばれると、舟を出した。ヤッチャバへ行き来する牛車や馬車が多く人間とは別料金で、牛馬は別の船で運んだ。また、水かさが多く、流れが急な時や、風が強い時など、竿に一人、櫓に一人、二人で渡した。こんな時は少年の亀次郎さんも船頭としてかり出された。向こう岸の船頭は三橋さんといって、半月ずつ交代で勤めた。
当時の川岸は、水際を杭で土止めをした土手で、緩やかな傾斜で桟橋が川に突き出ていた。こちら側は水深が割に深いのに対し、対岸は砂地があり潮の満ち干によって、桟橋に代桟(厚手の板)をたさなくてはならず面倒だった。桟橋や代桟はときどきブラシでこすって滑らないように手入れをした。
『荒川区史』では、一九三二(昭和七)年の渡し利用者数は、二一九〇人と推定している。三三年に尾竹橋が架けられると、次第に乗船者が減り、橋が架かった翌年頃に廃業したと思われる。