涌井澄夫さんは、一九三五(昭和一〇)年一一月に緑町に建てられた同潤会分譲住宅に移り住んだが、当時の生活を次のように語った。
私の一家は、私が小学校入学直前に父の長年の夢だった「庭付きの家」を求めてここに引っ越した。
この分譲地は一ブロック一二軒で八ブロック、計九六戸の売り出しだった。ブロックを囲む道は碁盤の目のように整然としていた。まだ入居していない家もあったが、翌年の春までには入居済みとなった。
西の方は隅田川まで二mを越す葦原で、堤防もなく、川を上り下りする舟の白帆が富士の姿を背景にして見えた。屋根に登ると、上野の逓信博物館が見えた。北は埋め立ての真最中、四本煙突が間近に見え、北風が砂塵を巻きあげていた。冬の夜道は街灯のない闇になる。銭湯の帰りなど、母とじゃり道をたどると他家に間違って入ってしまうこともある。どの家も造りが似ているからである。
団地の住人は三〇代のサラリーマンがほとんどであった(父は、南千住のガス会社勤務)。六時ごろに、家々から子どもを呼ぶ母親の声が聞こえ、八時過ぎると町は眠りについた。子供たちの遊びは、男の子はかくれんぼ、女の子はままごと。どの家も庭があり、生け垣に囲まれていた。裏庭のしおり戸を開けると、四軒の庭があわさる様になっていて野球もできた。
線路の向こう緑町一丁目は、当時工業地帯として売りに出された。対岸には尾久操車場があり、夜になると時折ガッチャーンという連結の音が聞こえた。