祭神は、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)と大国主大神(おおくにぬしのみこと)で、祭儀として、例大祭が四月一一日におこなわれる。社殿は、本殿(煉瓦造)・幣殿・拝殿(木造破風造)である。境内神社は、水神社(水速女命・荒川渡場より戦後当社に合祀、享保三(一七一八)年本木村と刻してあるが、風化が著しい)。境内地の面積は、二九〇m2である。
当社は、土手稲荷とも通称されている。一七五四(宝暦四)年、九代将軍徳川家重の時代と伝えられるが、詳細は不明である。古来より当地に鎮座し、郷民の信仰が厚く、年ごとの祭祀も継続してきた。明治のはじめ、元宿堀に堰を設けることとなった。工事中、怪我をする者が絶えなかった。請負の下川さんの夢枕に狐が出て、「私を土手の下に葬ってくれ」といった。その翌朝、工事現場から田中稲荷の手引き石が出土した。このことがあったので、堀の入り口に祠を造って祀ったところ、その後は工事が順調に進み、堰は完成したという。一九一五(大正四)年水野氏により花崗岩鳥居一基・御眷属一対が寄進され、三七(昭和一二)年三月有志により旧境内地に玉垣建立、次いで三八(昭和一三)年一月に石灯籠一対が献納された。
旧地というのは、墨堤通り、千住桜木町歩道橋西詰地点の石垣で囲まれた場所である。供養塔や道標が数基ある。この地西側堤下は元宿圦(いり)といい、荒川左岸の悪水落しの水門があったところで、ここは葛飾北斎の「冨嶽三十六景」中「武州千住」で描かれている。一九三五(昭和一〇)年頃までは荒川への船の出入り口で、河岸として利用され、付近に十数人の船頭衆が住み、住民もいて小さな港のようであった。
一九四〇(昭和一五)年一一月、現神社境内地へ移転を届け、四五(昭和二〇)年一一月元宿神社飛地境内社に編入した。桜木町に鎮守が無いことから、四七(昭和二二)年に元宿神社の了解を得て、設立出願して翌年二月に承認され町内総鎮守となった。五三(昭和二八)年、現境内に玉坦を、翌年社殿の再建築、社標の建立を相次いで行い、境内の整備をはかった。七一(昭和四六)年一〇月足立区より一八・二〇m2の廃道の払い下げを受け境内地の拡張がなされた。境内に水神社の小祠がある。戦後荒川渡船場からここに移したもので、「享保三年本木村」と刻印があるといわれているが、今は風化して読めない。
毎月、神社総代とともに町内老人クラブにより、境内の清掃奉仕が行われている。節分祭、例祭が行われ、特に九月一五日の例祭には町内会と子ども会により、山車・子ども神輿が繰り出され、賑わう。近年高層住宅団地の建設や住宅の高層化などで人口が急増し、氏子の地域内での役割の変貌が著しい。それだけに子どもも、大人も地域社会の結束を図る大切な機会となっている。