祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)で、祭儀として、例大祭が九月一五日に行われる。社殿は、本殿(鉄筋コンクリート造)・拝殿(鉄筋コンクリート造)で、その他神輿庫がある。境内神社は、稲荷神社、北野神社、胡録神社である。境内地の面積は、五七四.二m2である。
一九〇八(明治四一)年、現在地に白旗八幡宮の社殿を建て、氷川神社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った神社)として信仰された。
勧請の時期は不明だが、足立区の各地に残る源頼義、義家の奥州討伐の伝説の一つがこの八幡である。永野彦右衛門が遺した『旧考録』「第九 白旗八幡宮略縁起」には、次のように書かれている。
一頃は堀河院の御宇、承暦年中(一〇七七~一〇八〇)八幡太郎義家、奥州征伐の砌、当国に発行し荒川の岸に至り給ふ。荒川の岸に至り給ふに、日は西に傾き先手を始め漸く半過ぎて渡川せしに、既に日暮れぬれば爰に野陣す。さればこの二ツを本陣として川の前後に屯したり。義家朝臣は、氷川大明神の社頭に通夜して夷賊平治、武運長久の旨を祈誓し給ふ。其起請文並に扇子一握を神前に残し、翌日軍勢を引て奥州に赴き給ふ。社人来って彼の起請文は宮殿に納めて里人に告げて曰、今亦此末広は小社をしつらへこれを納て八幡宮を勧請すべしと。又当社より二町半を隔て巽のかたに土をつかね、旗を立てし跡に社を建て、同八幡宮と崇め奉る。今掃部宿の西裏に社あり、則是なり。別当ハ真言宗不動院なり。将亦、川の南岸、豊島郡の小塚原後陣の跡にも八幡宮を勧請す。今同町天王宮西に社あり、往来より三町隔、別当は本山修験にて能円坊と云何れも渡川前後の陣跡なり。されば、三所の同神を祭る事全くしかり今顕然として人の知る所なり。只その因縁を写して宝前にささげ奉るのみ。
当社は、源義家が、隅田川を渡る際、両岸に白旗を立て目印にしたことに因んでいる。荒川区側にも南千住六丁目に八幡宮(若宮八幡宮)がある。
現在は国道四号線沿いにあるが、それ以前は地元の人々が大師道と呼んだ古道ぞいにあった。大師道は旧日光街道、河原町の中ほどから河原町稲荷神社、八幡神社、氷川神社と通じ、それぞれの神社の鳥居がこの道に面して立っていた。現在の四号国道は、かつての八幡神社の境内を貫いていることになる。