九二六(延長四)年に稲荷社が創立され、一二七九(弘安二年)年に氷川社が武蔵一宮から勧請されたといわれる。江戸時代において、氷川社の祭神は、素戔嗚尊・櫛稲田媛命(くしいなだひめのみこと)・大己貴尊(おおなむちのみこと)、社地のうち三反四畝二四歩は除地で、別当は金蔵寺である。稲荷社は千崎稲荷とも呼ばれ、祭神は大田命・保食姫命・倉稲魂命・大己貴命・大宮姫命で、社地のうち五反八畝一五歩は除地であり、このほか稲荷免が二反一畝一四歩であった。別当は慈眼寺である。旧考録によると、一六六四(寛文四)年から別当寺の支配となった。幕末期には二ツ森両社と呼ばれた。
一八七二(明治五)年一一月に両社は村社となり、翌七三(明治六)年六月に氷川神社に千崎稲荷神社が合祀されて西森神社と改称され、翌七月に郷社となった。一八七九(明治一二)年の境内坪数は二二五一坪、本殿・幣殿・拝殿のほか神輿庫、神器庫があった。また、末社として、浅間神社、八幡神、道祖神、和合社、御嶽神、北野社の六社があり、氏子数は七三五戸であった。一九一五(大正四)年に千住神社と改称された。一九四五(昭和二〇)年四月の戦災で、境内の全ての木像建築は灰燼に帰した。一九五三年に神楽殿、五五年に神輿庫、五八年に社殿が建設されて以降、徐々に建物が再興、建設され現在にいたる。