幕末期における両社の年中行事は次の通りである。一月五・六日は両社に幣帛・供物を供え両社の祭神を祀る武者祭が行われた。武者祭はこんないわれがある。元弘・建武の乱頃に源家一族が当所へ来て二つ森付近に庵を結び隠棲しているうちに、民家との交わりを深くし、一月五・六日の両社の祭を営むようになった。その人は代々武家の家系で弓矢を生業としていたので、蟇目を行い弓射や流鏑馬(やぶさめ)を両社に奉納した。これから年々歳々この儀式を行い、そのうち人々がその真似をするようになった。このようなことから、この祭りを武者祭と呼ぶようになったという。
一六六四(寛文四)年氷川社別当に金蔵寺が、稲荷社別当に慈眼寺がそれぞれなって以降、千住宿の氏子は東西の街並みに分かれ幣帛を迎え、当番宿となる家へ両寺の僧を招き、氏子一同が集まり神酒・しとぎ(粢)、飯汁、餅菓子を供え読経祈願する祭礼をおこなった。五日は稲荷社の祭で、もし当番が東側ならば東側の氏子はみんなその日の主となり西側の氏子はその日の客となった。主は、神酒をあけ酒、御膳を客へ勧めた。飯は、親椀三つに高盛りしたもので、主は客に「残らず食べて下さい」と強いて勧め、客は「その言葉通りに大食しては食料がつきてしまうでしょう」と言い返す。主は「気遣いしなくても蓄えは十二分にあります」と言い返すというように、主客がともにこんな事を言い合うのを例年の儀式としていた。
翌六日は氷川社の祭礼で、前日とは反対に西側の氏子が当番となり主をつとめ、東側の氏子は客となった。酒食の勧め方は前日同様であった。七日は、別当寺僧、祭礼当番、氏子一同が鎮守の拝殿に参集して天下泰平五穀豊穣を祈り、その年の無事を祈り流鏑馬を奉納した。その後拝殿で餅の入った吸い物・大根・田作の鱠(なます)菜の芥子あえを肴として酒宴を行い解散した。
二月初午日に両社に幣帛(へいはく)を捧げ、神酒・供物等を供え祈願した。六月一二日は宮薙祭(みやなぎさい)といい、両社の草を切り払い掃除をし、幣帛を捧げ神酒を供えた。同月一三日稲荷社で神酒・小麦の蒸し物などの供物を供えた。同月一五日には氷川社に稲荷社同様の供物を供えた。同日稲荷社別当の慈眼寺に宿役人とその年の武者祭当番一同が集まり、神酒供物を開き膳を食した。この儀式は一七四三(寛保三)年から一八四五(弘化二)年まで中断していたが翌年から再興された。九月の祭礼では一四日に町内に仮殿を造り、一五日に両社に幣帛を捧げ例年通りに神輿を出して仮殿に安置した。一六日に神輿が町内に練り歩き、同日のうちに本社へ帰った。