江戸時代初めに開発された弥五郎新田は、現在の青井三丁目付近から日ノ出町までの広い範囲に及んでいる。開発が始められた年代は明確ではないが、村内の清亮寺(現日ノ出町)、長性寺(現西綾瀬)の創建年代や慶安年間(一六四八~五二年)に成立した「武蔵田園簿」に弥五郎新田の記載が見られることから一七世紀前半に開発が始められたと考えられる。弥五郎新田の開発について、一八七七(明治一〇)年一〇月に作成された「地誌編 第十大区六小区 弥五郎新田」(鴨下家文書)には、
当村ハ足立郡渕江領ニ属スル一村ナリ、耆老(きろう)相伝テ言フ、昔時総州千葉家ノ旧臣京極氏弥五郎ト称スル者、慶元建〓(けんこう)以後、農民ニ籍シ、此地ヲ開墾シテ耕耘(こううん)ヲ勤メ、稼穡(かしょく)ヲ業トス、其子孫相継テ菑畬(しよ)シ、遂ニ保伍ノ地ヲナセリ、今田地四拾六町三畝十歩、人家四十六戸ナリ、弥五郎ノ居所ヲ京極屋敷ト称セシヲ、今ニ名ノミ存スル地、村ノ南ニアリ、
と記述されている。これによれば、千葉氏の旧臣京極弥五郎という者が、慶長・元和(一五九六~一六二四)の天下太平以後、武士から農民となってこの地を開墾して農業を生業とした。その子孫も耕地の開発を進め、村落として成立したとされている。また、京極弥五郎の住んでいた場所を京極屋敷とよんでいたが、村の南に地名だけが残っているとある。『風土記』によると、古隅田川には京極橋が架けられていた。その架橋位置は村の南端であり、京極屋敷も京極橋の付近にあったと思われる。また、前出の『地誌編』によると、開発の順序については、
唯開墾ノ前後ヲ以テ、路ノ南ヲ本田トシ、路ノ北ヲ新田トス、南北併テ弥五郎新田ト称ス、
とある。開発の前後によって伊藤谷道の南側を「本田」、北側を「新田」とよび、南北を合わせて弥五郎新田とよんだとある。弥五郎新田の開発は村の南の方から始められ、次第に北の荒野にまで開発の手が伸びていったと考えられる。
元禄期(一六八八~一七〇四)になると、幕府は各村の耕地を正確に調べるために検地を行った。この検地によって算出された石高は、江戸時代を通じて年貢などが賦課される際の基礎的な数値として利用された。弥五郎新田では下野国黒羽(くろばね)藩主大関増恒(おおぜきますつね)によって検地が行われ、一六九七(元禄一〇)年一一月に検地帳が完成した。この検地帳によると、村高は約二六五石。そのうち、田が約一〇二石、畑が一六三石であり、畑地がやや多かった。耕地別にみると、村の北側には田が多く、南側には畑が多い。村の南側の糀野耕地・大原耕地は、「本田」とよばれた弥五郎新田のもともとの中心地であり、すべて畑地であった。
一八三八(天保九)年の農間余業調査(佐野家文書)によると、弥五郎新田の家数は一〇四軒で、人口は六三一人であった。専業農家は九四軒、農間余業をしている家は一〇軒あった。余業の内容は、居酒屋・小間物類商売・蒸菓子干菓子商売・菓子内卸があった。そのほとんどが、農業を主な生業とする村であった。