日ノ出町の農業

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 弥五郎新田は『風土記』に「水旱共ニ患アリ」と記されているように、日ノ出町では用水の確保と排水に悩まされていた。日ノ出町で用いられた用水は見沼代用水系のものである。見沼代用水は一七二八(享保一三)年から開削された用水路で、利根川の元圦(もといり)(現埼玉県行田市)から引かれた。日ノ出町は見沼代用水の最末流部にあたり、弥五引井堀・東掃部井堀・千住井堀などが流れていた。

 日ノ出町の農業の様子について、千寿第四小学校の六〇周年記念誌『わたしたちの千四』に掲載されている安室兼松さんの話では、

 このあたりは、田より畑のほうが多かった。冬は、どこの家でも漬物をつけたので、山東菜(白菜の一種)やたくあんにする大根を作った。田の代かきは、埼玉県三郷から農耕馬をかりてきてやった。田畑の肥料に人ぷんを上野・浅草までもらいにいき、大八車にのせて、水戸街道を引いて通った。子どももよく後おしをした。

とある。何年ころの様子か記されていないが、日ノ出町では昭和に入ったころに都市化が進み、農地が縮小していったことから、大正から昭和初期の様子と思われる。田よりも畑が多かったという証言は、検地帳や『東京府志料』に記録されている弥五郎新田の特徴と同じものであり、このころまでは江戸時代とかわらぬ農村風景が広がっていたようだ。田畑の肥料に用いる下肥は上野や浅草から大八車で貰ってきたとあるが、太郎山の圦(現在の千住旭公園付近と思われる)に下肥船がついたという話しも残されている。

 畑地の方が多かったとはいえ稲作も行われており、それにちなんだ苗田橋という名前の橋もあった。陸前浜街道(水戸佐倉道)を横切る堀に架けられていた橋で、その両側に稲の苗を育てる苗田が広がっていたことから名付けられたという。清亮寺境内には「苗田橋」と記された石柱が現在も残されている。


清亮寺に残る「苗田橋」の石柱
「橋」の字はほとんど欠けてしまっている。