荒川放水路の建設

282 ~ 283

 一九一〇(明治四三)年の洪水の後、荒川放水路(現荒川)の建設計画が進められた。河道についてはいくつかの案が検討された後、現在のものに決定された。一一(明治四四)年千住に土地収用事務所が設置された。一三(大正二)年、用地買収はほぼ終わり、買収が終了した所から工事が開始され、二四(大正一三)年一〇月に通水式が行われて一応の完成を見た。工事はその後も続き、三〇(昭和五)年にすべて終了した。

 弥五郎新田の放水路用地は、二七九頁の図に示したように、村の南部、いわゆる「本田」(糀野耕地・大原耕地)とよばれた開発以来の中心地を貫いた。この結果、現在の日ノ出町の区域は弥五郎新田の一部でありながら、放水路以南に取り残される形となった。記録によると、この時に買収された土地は、三五町三反一畝一四歩で、「本田」の反別四六町三反一畝のうちおよそ四分の三にあたる。一坪(三・三m2)あたりの買収価格は、田畑が一円、宅地が二円五〇銭であったという(『弥五郎新田の今昔』)。また、住居を買収されて三七戸が移転を余儀なくされた。移転先の内訳をみてみると、五反野に移転した家が九戸、日ノ出町三丁目に移転した家が九戸、放水路以南及びそれ以外に移転した家が一九戸であった。また、稲荷神社が西之宮稲荷神社に合祀されたり、真福寺(現梅田一丁目)の移転など、この地にあった寺社にも大きな影響を与えた。


主要水路と道路


弥五郎新田村図放水路部分(原図は鴨下喜助さん・瀬田一男さん蔵)


荒川放水路の工事で移転した人びと