荒川放水路の開削によって橋を使っての交通が不可欠となった。しかし、通水式が行われた一九二四(大正一三)年一〇月までに架橋されたのは江北橋、西新井橋、千住新橋、堀切橋の四橋であった。放水路完成後の三七(昭和一二)年になると日ノ出町と葛飾区小菅町を結ぶ新しい橋の架橋が計画された。三七(昭和一二)年三月一六日付の東京市公報に次のような記事が掲載されている。
弥五郎新田橋の新設-一二年度に着手予定-
葛飾区金町及千葉県松戸方面より千住市場並に市内に搬入せらるる貨物は逐年増加しつつあって此等の貨物の運搬自動車は遠く千住新橋を迂回している状態であり之が為千住新橋も其の一一、〇米の幅員では狭小であって混雑を極めつつある現況である。この混雑を緩和せんとする目的で本橋を架けるもので、位置は陸前浜街道が荒川放水路新設により中断せられたる箇所である。本橋は鉄橋で橋長五〇〇米(メートル)、幅員七米、橋面積三五〇〇平方米、其の予算は約七三万円で継続事業となって居り目下起債認可申請中であるから、許可あり次第着手するが本年度に地質調査を了へ一二年に下部工事の一部である橋台工事並橋脚一部の工事を施工する予定である。
この記事から貨物輸送の自動車は、積載重量の関係から、木橋の堀切橋を渡らず、鉄橋の千住新橋に迂回していたようである。続いて同年八月一二日付の東京市広報には、弥五郎新田橋の地質調査(ボーリング)を完了したという記事が掲載されている。これによると、調査は六月七日に開始、七月三一日に終了した。地質調査は常時水の流れている中央の低水敷において四か所、両側の平時には水の流れていない高水敷において四か所、合計八か所で行われた。地下二五m~四三、三mと深さに違いがあるものの、全調査地点で架橋に適した地質が発見され、「起債認可あり次第」橋台・橋脚工事に進むとされた。
弥五郎新田橋の架橋問題と平行して都市計画道路も策定され、一九三七(昭和一二)年一一月一七日に審議に付されている。荒川放水路以南に二五路線が計画されたが、常東地区に該当するものは次の一〇路線(計画道路網の地図は一二四頁参照)。
路線番号 起点 終点 幅員
一〇 千住旭町 日ノ出町一丁目 八
一一 千住関屋町 日ノ出町一丁目 一一
一二 千住東町 日ノ出町一丁目 八
一三 千住曙町 日ノ出町一丁目 一一
一五 千住河原町 千住関屋町 一五~一一
二一 千住元町 日ノ出町一丁目一五~一一
二二 千住曙町 柳原町 一一
二三 千住東町 千住東町 一一
二四 柳原町 柳原町 一一
二五 千住旭町 柳原町 一一
整備の理由として、計画区域は荒川放水路(現在の荒川)と荒川(同隅田川)に囲まれた島状の平坦地で工業用地として極めて適した地域であるが、在来道路は幅員狭小の上、系統もまちまちであり、旧西新井町及び江北村方面とは交通の便を欠いているため、区域の発展に備えて万全の交通を整備するとしている。都市計画道路策定にあたって作成された図面には、計画路線に加えて弥五郎新田橋と思われる橋も記載されている。弥五郎新田橋付近の計画道路は幅員一一mとなっていることから、直接記述はないものの、両者の整備が一体のものとして進められていたことが推測される。
さて、弥五郎新田橋の架橋位置であるが、足立区側は、東武線鉄橋からおよそ三五〇m下流、日ノ出町二〇番地地先付近であった。葛飾区側は小菅一丁目一五番地地先付近になっている。東京市広報には陸前浜街道(水戸佐倉道)が荒川放水路によって中断された位置とあるが、葛飾区側がその位置にあたっている。
弥五郎新田橋は、測量・ボーリング調査まで行われたが、東京市広報にはその後の経過の記事もなく、市参事会などの記録にも、起債不許可、中止、架橋中止の記録もない。何らかの理由で、東京府(内務省)から起債の許可を得られず建設中止に至ったのであろう。