千寿常東小学校(千住旭町一〇-三一、旧千寿第四小学校)を含む一帯は、甲良家の別邸であった。同校の校庭には東都嘉慶樹(とうとかけいじゅ)の碑とよばれる円形の碑が建てられている。碑の直径は一・二m、厚さ八cmあり、コンクリートの洗い出しの台座に約二〇cm埋め込まれている。南門西側の松の下(現在はない)にあったが、一九六八(昭和四三)年の校舎改築後に現在地に移された。この碑の裏面には甲良屋敷の見取り図や、その由来、別邸内の様子が刻まれている。碑文の方向をみると南を上に記されているが、時計回りにおよそ一二〇度傾いている。この図面から、敷地約一万坪、そのほぼ中央に、間口三一間(約五六m)、奥行二九間(約五二m)の屋敷があり、南に向いて門があったことがわかる。碑文には次のように記されている。
抑(そもそも)、此の地たるや、寛文十年より以来□□□□□宗清の別業(べつぎょう)なり。宗清老いたり。名を改めて宗賀(むねよし)と曰(い)ふ。宗賀の子を宗員(むねかず)と曰ふ。□之(これ)が妹を牟久子と曰ふ。牟久子なる者は乃(すなわ)ち予の実家の母なり。是を以て、甲良氏の玄孫匠五郎は、予に此の地を譲る。而して今又予の別墅(べっしょ)と為るなり。此の地の縦横薮林の中、神社五位故木三株有り。五位なる者は、稲荷二座、疱瘡神一座、弁才天堂、土神南、是れなるのみと。夫れ三株樹とは、一は千株松と曰ひ、二は相思松と曰ひ、三は東都嘉慶樹と曰ふのみ。
宝暦二壬申の暮春
坂上登玄臺謹んで識(しる)す
(原漢文)
これによると、甲良屋敷は一六七〇(寛文一〇)年、甲良家三代宗清(宗賀)の別荘として建てられた。その後、宗賀の娘牟久子が田村家に嫁いできた。この関係で匠五郎(棟保)から、坂上登に屋敷が譲られた。屋敷内には稲荷社が二社、疱瘡神・弁財天堂・土神祠がそれぞれ一社、合計五つの社があった。また「縦横薮林」という言葉から屋敷内には多くの木々があったと思われるが、「故木」として、千株松・相思松・東都嘉慶樹の三本をあげている。
甲良屋敷を譲られた坂上登は江戸時代中期の本草家で、田村藍水ともいった。坂上が本姓で、田村麻呂の支族であったために田村を氏としたという。登は名で、玄台は字、藍水は号。一七一八(享保三)年江戸に生まれた。家業は代々町医者であった。一七三七(元文二)年幕府から朝鮮人参の種を与えられ、その栽培を行った。一七五七(宝暦七)年には湯島で門弟の平賀源内らと日本初の物産会を開いた。一七六二(宝暦一二)年、禄高三〇〇石で幕府に召抱えられ、一七七六(安永五)年江戸で没した。