建部巣兆の住居地

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 文化文政期(一八〇四~三〇)の最も江戸文化が花咲いた時期、江戸俳壇を代表する四家の一人だった建部巣兆が関屋の里の風向を愛して住み、秋香庵として俳諧の拠点を構えていた(巣兆については一五〇頁参照)。

 巣兆の住居地について記した資料に「南北千住町今昔見聞実記」(郷土博物館複写収集資料)がある。冒頭部分の記述から一九一九(大正八)年九月に作成し、翌年書写が行われ、一九四一(昭和一六)年に再び書写されたと考えられる。巣兆については、次のように記されている。

 画家関屋巣兆の伝説

巣兆子ハ、文化年中の人。住宅ハ旧掃部宿東堤内、今の向山鉄工所の筋向にて、元氷川面といふ田の所。其の印に堤敷に少し築出しあり。氏ハ大酒呑の人。其の頃の慈眼寺に住職大酒呑の人あり。時々慈眼寺江迎ひに行き、酒を呑み乍ら絵を書く故に、慈眼寺の事を巣兆寺と云ふ。同寺ハ巣兆の書物多く秘蔵せり。此の人晩年ハ不明なれど、住宅の地ハ其の書付の町連中の有志が買求め、鎮守氷川神社へ納めしとの事なり。此の辺ハ、荒川八景と云ふ。是に八句有れ共、今ハ忘失せし故に其の二三を印す。

この資料によると、巣兆の住居は、旧地名が掃部宿東堤内、所在地が一九一九(大正八)年当時の向山鉄工所の筋向、水田の中にあった。

 「掃部宿東堤内」という字名は、西が旧街道町裏、北が熊谷堤、南が掃部堤、東が現牛田駅付近の範囲であった。「向山鉄工所」は、「東京府南足立郡千住町々勢要覧 大正八年六月調査」(足立区立郷土博物館蔵)に記載されている「向山機械製作所 中組四二九番地 千住三〇六番」と考えられる。一九一一(明治四四)年「東京府南足立郡千住町北豊嶋郡南千住町」(足立区立郷土博物館複写収集資料)によると、上掲図の場所にあたる。また、町勢要覧の裏面に「千住町地図」があるが、「向山機械製作所」の位置には「鉄工所」とある。これが「向山鉄工所」に該当し、現住所では千住関屋町二三番八号もしくは九号付近にあたると考えられる。また、「掃部宿東堤内」は掃部堤(現墨堤通り)以北の字名であることから、巣兆の住居があったという「向山鉄工所の筋向」は、掃部堤を挟んだ対面方向(北側)にあると考えられる。その場所は、水田で氷川神社に寄進されたということから、堤防に接する地に神社関係の遺構があると推測される。掃部堤の北側に稲荷大明神社(千住東一丁目二-九)がある。


千住中組429番地(「東京府南足立郡千住町北豊嶋郡南千住町」、足立区立郷土博物館複写収集資料)


墨堤通り(千住東一丁目から千住河原町方向を望む)
写真右側が建部巣兆の住居推定地

 「南北千住町今昔見聞実記」が近代の聞き書きであるため仮説の域を出ないが、以上の検討から巣兆の住所地は、現千住東一丁目二番九号および三番一〇号の周辺であると考えられる。