現在のまち

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 一八八〇(明治一三)年に測図された地図をみると、宿場の町並の東側と千寿旭町の付近に家が点在しているものの、一面に田畑が広がっていた様子がわかる。一九〇九(明治四二)年測図の地図になると現在の補助一三九号線(大踏切から柳原に至る通り)の南側に家が立ち並んでいる。一八九八(明治三一)年に田辺製薬所が千住三丁目牛田耕地(現千住東二丁目二四)に創立され、地図中右下に工場の記号がみられる。また、図中に記号はないが、一九〇五(明治三八)年、千住中組牛田耕地(千住東二丁目二番)に下野製紙千住工場が創立された。この工場では浅草紙を大量に機械化生産した。これによって漉返紙(すきかえしがみ)を副業としていた足立の農家が打撃を受けた。さらに、一一(明治四四)年には金工舎(細沼貴金属工業)千住工場が千住三丁目牛田耕地に創立された。


1880(明治13)年


1909(明治42)年

 一九一九(大正八)年の千住町図をみると、千住旭町付近が田畑であったのに対して、千住東一・二丁目付近に工場が進出している。千代田製紙は一四(大正三)年に、鐘ヶ渕製紙は一八(大正七)年に設立された。下野製紙やそれに隣接する「加工製紙」工場を含め、製紙関係の工場の進出が目立っている。千住東一丁目、現在の大踏切付近には東京モスリンという毛織物の工場が立っていた。


1919(大正8)年

 一九三七(昭和一二)年の地形図をみると、ほぼ全域が都市化している。千住旭町には専売局の工場が建てられた。ここでは、葉巻・トルコロール巻・パイプ煙草などを製造していたが、五一(昭和二六)年六月に製造停止になり、倉庫その他に利用された。工場敷地の北部は足立税務署・足立労働基準監督署・日本たばこ産業足立営業所となっている。五九(昭和三四)年ごろから南部倉庫あとに職員住宅が建てられた。製紙工場も廃業・移転し、その跡地には東京都住宅供給公社東町住宅や都営住宅千住東二丁目アパートなどになっている。


1937(昭和12)年