江戸時代の柳原

291 ~ 292

 武蔵国葛飾郡西葛西領に属し、明治に至るまで幕府の直轄領(天領)であった。開発の時期は明らかではないが、その成立について、『風土記』小谷野村の項に次のように記されている。

 正保ノ改ニ小谷野柳原村ト記シテ一村ナリ。元禄ノ改ヨリ。今ノ如ク二村ニ別タレバ。分村セシハ元禄十年検地頃ヨリノ事ナルベシ

 この記述を裏付けるように、慶安年間(一六四八~五三)に成立した「武蔵田園簿」には小谷野柳原村として二九七石余(田二二四石余、畑七三石余)が記載されている。その後、元禄年間(一六八八~一七〇四)に行われた検地の結果を示す「元禄郷帳」では、柳原村として一八九石余が示されている(小谷野村は一九〇石余で二か村合わせた石高は三八〇石余)。柳原村の石高は「天保郷帳」・「旧高旧領取調帳」からも知ることができるが、「元禄郷帳」記載の石高と変化していない。


絵図に描かれた柳原(高田家文書、足立区立郷土博物館蔵)

 次に『風土記』から一九世紀初頭の柳原村の様子をみると、戸数は三二戸で、村には上(かみ)、中(なか)、下(しも)の三つの小名があった。隣村は、東に小菅村と小谷野村、南に千住三丁目小名牛田、西に弥五郎新田、北に小菅村が接していた。村の周囲は古綾瀬川・古隅田川で囲まれており、東側の小菅村を除いていずれも川が村境となっていた。江戸時代の絵図を見ると、柳原村と隣村との行き来のために橋が三か所架けられていたことがわかる。古隅田川に架かる橋は、京極橋と牛田橋、古綾瀬川に架かる橋は御成橋とよばれていた。村の大きさは東西四町半(約四九〇m)、南北六町(約六五〇m)、その中程に高札場が設けられていた。寺院は理性院一か寺、新義真言宗で青戸村宝持院の末寺であった。また、神社は稲荷社と第六天社の二社で、稲荷社は理性院が管理していた社であった。